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ミステリ作家による本のススメ、『米澤屋書店』

ミステリー作家・米澤穂信氏が様々な媒体に書きためてきた書評やお勧め本、対談を一冊にまとめた、デビュー20周年記念エッセイ。

ミステリ好きでなく疎いのになんとなく手に取る推しの推す作家による読書エッセイ。

読みたい本が増えるのではとドキドキしていたわりに、ノート1頁を〆るに留まる。やっぱり私はミステリ好き、ではない。けれども、この本の真摯な良さとは関係がない。おもしろい。


「好きなように本を選ぶ」とは、単にいい加減に選ぶことではない。自らの好奇心と感受性を信じてそれを鍛え、自分の時間を支払って、本を選ぶ自由を守ることだ。自らの趣味嗜好を認識し、そこから一歩出てみようと試みることだ。その挑戦がなければ、私はいつか、いつも似たような本ばかりを読むことになるだろう。

(68p『好きなように』より)

本の話はたいてい映画の話に通じて、どちらにしても、ほんとうにそうだとおもう。

修善寺はかつて別の名前だった、という説もある。『今昔物語集』には「桂谷ノ山寺」とあり、桂谷山寺というのが元の寺号だという。(中略)その一方修善寺は、「伊豆国禅院」として正史にも載っている、という。
「正史...?」
と鞄から『女王蜂』(横溝正史)を取り出す。たぶんこれではない。

(178p『本に呼ばれて修善寺詣』より)

鞄ひとつで済むはずの小旅行に、お供の本を予備的多く持ったらふたつに増えたという、大真面目な著者らしい書き出しに始まる。読みながらバスの中でくすっと笑う。

このところ、暇があると森銑三の随筆『落葉籠』を読んでいる。はっきり告白すると、作者が何を書いているのか全然わからない。(中略) なにしろ初めて見る固有名詞ばかりなので、読んでいてもほとんど頭に入ってこない。(中略) だけど、これが面白いのだ。碩学・森銑三の文章に導かれ、聞いたことのない人名、読んだことのない書名を浴びていく。どこかの誰かが手すさびに書いた本、別の誰かが命を賭して書いた本が、ページをめくるたびに現れては消えていく。
読書は船出に似ていると思う。あまりにもちっぽけなボートで夜の海に漕ぎ出していくよう。あまりに不安なので決まり切った航路に舵を切って、「なんだ、海もそんなに怖くないね」と言い放つ。そこで『落葉籠』のような本を読むと、いま自分が漂う海の広さを改めて鳥瞰させられて、ぼうっと熱に浮かされる。

(211p『二〇一三年十月』より)

作者がちっぽけなボートなら、私はさしずめささ舟で、まったく違う。
とはいえ、2度もわからなくて閉じている森銑三氏の随筆『古書新説』のことを思い返す。
米澤氏でもってして頭に入ってこないなら、そのわからなさを私もいっそ楽しんでみようとおもえた有難い箇所。


ちなみに、タイトルはむかし短い間、書店員として働いた経歴のある作者による読書案内ぽいところに由来している風。

マジメか!ってツッコミ入れたくなるちょっとお固いところとか、なんでもミステリの定規を当てて読んでしまう職業病的なところとか、人柄滲み出る。
作家を知るのに最適な一冊で、少なくても私はその真面目さに好感もてて、ミステリにより興味を抱けたようだ。

さらには、忘れかけていた敬愛する連城三紀彦氏の名と、その誉め言葉にドキドキしながら、無性になにか読みたくなった。

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