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何もない景色

月曜の朝は眠くて、今朝はそれほどでもないが、やっぱり眠くて、眠たいことをそのまま書くと眠ってしまいそうだから、こういう時は刺激的なことを書けば良いけど、今は難しい。

会いたいとか、触れたいとか、語り合いたいとか、交換したいとか、あの時過ごした時間がどれだけ濃密な時間だったのかを、思い知らされていて、今は修行のような日々を過ごしているけど、明確な目的地もみえないので、やっぱりこれは修行なんだろうな。

何もないことを信じるのだと思いつくけど、ほんとうに何もないのかと問うと、何もないわけではなくて、何かはあると思っていて、その何かあることを信じれば良いのかと考えはじめると「何かあることを信じる」ということに根拠があるような気がしてくる。

ただし、それは今目の前にある状況ではなくて、思い出のなかにあることで、思い出は過去にあったことだけど、ほんとうに過去にあったかどうかはわからなくて、ぼくの妄想かも知れないから、でもあったのだと信じて、そこには何かしらのものがあったのだと。

故に、何かあったという過去形から、何かあると言えるのかどうか、継続しているのかどうか、それはいまだ途絶えることがない言葉のことで、触れて欲しいことには、触れてもらえなくて、放置されていて、核心に近い言葉が突然やってくることもあるけど、その先はもう何もないから。

何もないわけではなくて、何かあるのだけれど、その何かあることを信じれば良いのか、それで良いのか、信じることを学ぶとはそういうことだけど、ぼくは孤独だから、そんなことはなくて、孤独ではあるが、1人ではなくて、1人ではあるが、孤独ではないというのは、どっちなんだと言われても、どっちもなんだよ。

孤独ではあるが、孤独ではなくて、1人ではないが、1人ではあって、交換可能性のなかで、どちらでもあるし、どちらでもなくて、爪切らないとな、とか、笑顔が良いよね、とか、楽しく、面白く、生きていった方が良いから、それはそうだよね、それでいきたいから、それでいこうよね、って。


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