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青、みみずく

朝方に夢をみた。友人でも知人でもない、見たことのない人を擁護するために、ぼくは必死に語っていた。その場面が終わると、ぼくは夢の中で気持ち良く感じていた。誰かのために何かを語ることができたという感触。夢から覚めて落胆したのは、普段できていないことだと認識したからで、ぼくは今まで何をしてきたんだろうと思う。

寝床から起きて、ダイニングに向かう。今日は朝から皆出かけていて、家のなかは休館中の図書館のように静かだ。水道の水を入れたケトルをコンロに置いて火をつける。キッチンの奥から珈琲セットを取り出してダイニングテーブルの上にセットする。サーバーの上に置いたドリッパーに紙フィルターをセットして、アフリカンスノーの豆を適量入れる。

ダイニングの椅子に座ってコンロのケトルをながめる。夢のことをぼんやりと思い浮かべていたら、ある本のことを思い出した。読み終えたかどうか定かではなく、内容もほとんど覚えていない。たぶん、途中で読むのを止めてしまったのだと思う。なぜ途中で読むことをやめてしまったのだろう。その時は先に進むことができなかった。

コンロの火をとめて、グツグツ音を立てるケトルを持ってダイニングテーブルに向かう。ドリッパーの中の珈琲豆に湯を注ぐ。珈琲豆がむくむくとふくらみ、少し蒸らしてからまた湯を注ぐ。抽出されてサーバーに溜まって行く珈琲の音が聴こえる。夢のことと、思い出した本に、何か関係があるのだろうか。表面上は何も関係はないのだろうけど、奥の方でつながる何かがあるのかも知れない。だから、思い出した本を読んでも、表面上は何もないのだろうけど、ぼくの意識できない何かが動くのかもしれない。


珈琲を飲み終わり、本棚のある部屋に向かってドアを開ける。置いてある位置はなんとなくわかっていたので、棚の前に立って人差し指で本を引き出す。今は文庫本になっているけど、発売した当時に買ったので単行本。ぼくのなかで本の配色イメージは青だったけど、白地に青字でタイトルが印字してあるだけで、なぜ青のイメージだったのかは、栞紐が鮮やかな青色だったからか。よく見るとタイトル下にある小さなみみずくも青色だった。

部屋に持ち帰った本を机の上の端に置く。立ち上げたパソコンでnoteの下書きを校正する。校正に行き詰まるとネットサーフィンをしてYahoo!ニュースみる。ため息が出るニュースばかりだ。コメント欄には正義が躍る。下書きの校正に戻る。

近くの丼屋で買ってきた天丼を一人で食べて昼ごはんを済ませる。部屋に戻って椅子に座り、机の上の端にある本を手に取る。青い栞紐の先がほつれていたので、結び目をつくって先を止める。読んだことはあるが、最後まで読んだかどうか定かではない本。最初から読むか、途中の適当なところから読むか、随分と迷って青い栞紐が挟まっているページを開いて読み始める。

朝方に見た夢と、今から読む文章と、つながりが有るようで無くて、無いようで有って、なんにせよ読むべき文章があるのだろうし、もともと良い本だから、そうだな、とか、そうなのか、とか、そういうことでもいいんだな、とか、感じながら読みすすめる。ただし、久しぶりに本を読むので、長い時間は読めない。数ページ読んで閉じた本を机の真ん中に置くと、ゴロッと石の表と裏がひっくりかえったように、書くことのイメージが変わっていた。

この時期に、この文章に出会えて良かったと思った。まだぼくは何かを書けると思った。焦ることはないから、書いていけば良いと思った。そう思えることはとても大きいことで、これでまた何かを書くことができる。

今日、明日の文章をつくることに力を注いでいた。それも良いし、楽しいし、投稿できることはうれしい。だけど、ぼくはそれほど書く早さを持ち合わせてはいない。文章として煮詰めるには時間がかかる。思い浮かぶことを時間が許す限りタイピングもしたい。だから。

だから、これまでどおり文章を書いていく。思うことを言葉にする。タイピングした文章は下書きに溜めていく。その下書きの文章を校正してまた保存する。何度も読んで校正する。違う下書きを開いて校正する。その間に書きたい文章を書いていく。そうやって煮詰めながら何かに辿り着けば良いのかもしれない。辿り着けないかもしれないけど、何かは書けるかもしれない。その何かは、ぼくにしか書けないものだと思うから。書けないときは、その何かは表出されない。でもそのぼくの何かは表出したがっている。だから書こうとしているし、書きたいし、書いているから。

本を読むことは、変容することだ。映画をみることも変容することだ。音楽を聴くことも変容することだ。書くことも変容することだけど。変容してどうするんだ。ぼくは変容し続けたいのか。変容し続けることが生きることなら、生きたまま死なないことが変容することなのか。何も変わらないということも一つの生き方で、変容することも一つの生き方で、変容することが生き物としての証なのであれば、ぼくは生き物として変容することを選択したい。それは生き物としては何も変わらないことで、生き物をやめるくらい変容を遂げようとすることは、何も変わらないように生きることなのかもしれない。

今日はこんな感じで。


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