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拾う人に会えるかどうか。で、あなたは変わります。

「書く人」と「拾う人」がいることをご存知ですか。

先日、ツイッターでこのことを呟いたら反応が強かったので書いてみます。

コピーライターは初心の頃は、じぶんの書いたコピーに優劣がつけられません。もちろん、これはいいかな、とかの淡い感触はあるのですが、クリアーにはわかりません。例えば、打ち合わせでディレクターに「君がいいと思っているのは、どれ?」と聞かれておそるおそる「これだと思います」と言うのですが、こんなふうに返されることが頻発します。

「うん、それかぁ。それはあまり良くないと思うよ」

で、どのくらいで、じぶんのコピーがじぶんで「これは使える!」「芯を食ってる!」とわかるようになるのか。それにはだいたい2〜5年くらいかかると思います。もちろん個人の差は存在しますが、リアルな実態としてはそんな感じだと思います。

なぜそうなるのか。考えてみましょう。

キャッチコピーを含めたコピーライティングは、コミュニケーションの領域に存在します。

伝える→伝わる、ですね。伝えるの主語は、「じぶん」、書き手です。伝わるの主語は、「他人」、読み手です。つまり、自己と他者。みなさん、経験が必ずあると思いますが、自己の思いが他者にきちんと伝わらなくて、落胆したり挫折を感じたりしたことがありますよね。簡単に言えば、それがコピーライティングの世界でも起こる「断絶」なわけです。

プロだからと言って、この「断絶」から逃れられるわけではありません。特に、初心の頃はそうです。

自己は他者にはなれない。この絶対的真理が大きな河として横たわっているのです。

さらにもう一つの真理が重なります。
面白いことに、創作する時、クリエイティブ脳を使っている時、人間は没我状態になります。じぶんという容器に、じぶんの感性・思考が100%になるまで満ちてきます。他者の存在ははるか彼方に遠ざかります。じぶん勝手とは言いませんが、「純粋自己中心」モードになります。このモードは途轍もないエネルギーを生み出しますが、同時にコミュニケーションが欠如しがちになります。夢中になって相手が見えない。そんな状態になるわけです。

ゴッホはその没我のなかから、素晴らしいオリジナリティと新しい表現の視座を生み出しましたが、生涯、他者には評価されませんでした。これはおそるべきことで、現在は何十億円もする彼の絵が、当時はほぼゼロの価値しか持たなかったのです!! 
余談ですが、他者の集合体としての社会、その評価が大きな間違いを犯すこともかなりあります。

「書く人」が書いたものを、他者の立場で評価し道筋を示す人が「拾う人」です。「よき拾う人」は「書く人」を育て、「よき書く人」にします。

誤解をして欲しくないのですが、「拾う人」は「教える人」ではありません。「拾う人」の多くが、コピーをどう書けなどとは言わないものです。

ルーティンワークの形を教えるのと、価値創造型ワークの形を教えるのとは大きく違います。後者の形は、じぶんらしさを消し、標準的なアウトプットを生み出す危険性を内包します。「拾う人」は、どうしても「純粋自己中心」になってテーマを捉えようとする「書く人」に他者の視点を指し示すだけです。ですから、書く人のオリジナリティを消すことはありません。僕は長い間、様々な優れた個性あるクリエイターをまじかで見てきましたが、彼ら彼女らの近くには必ず「拾う人」がいたと思います。

ごく個人的な思い込みかもしれませんが、僕はもう「教える人」はいらないと考えています。「拾う人」や、その派生である「指し示す人」が「教える人」になればいいのです。

大学の先生、トレーナー、編集者、ディレクター、経営者・・・そのような職の領域では、教えることの意味や価値を変えていかないといけません。会社組織としてトレーナーではなく、メンターが重要になってきているのもその表れだと考えています。「拾う人」はプラスを見つける人です、マイナスを見つけても、育ちが遅くなるだけではないでしょうか。そもそも日々が楽しくないですよね。

コピーライティングの場合、「拾う人」は必ずしもコピーライターの先輩でなくてもかまいません。僕は、デザイナーや営業さんという別職種の人から、たくさんじぶんのコピーを拾われました。ここも「拾う」の面白いところですね。

さて、最後です。一つの問いをあなたにぶつけます。

あなたに「拾う人」はいますか。そして、あなたは「拾う人」になることができますか。


(おわり)

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