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漱石の内側からの視点。そのドラマ性について。

人と会えず、家にこもりがちになる。

そんな今の時代に読むと、また違った趣を呈してくる作品がある。

夏目漱石「硝子戸の中」。

中は「なか」と読むのか、「うち」と読むのか。漱石自身が「中」に「うち」とルビをふってあるので、「うち」に違いないのだが、世の中的には「なか」と呼称する人が多いそうである。

この随筆は大正4年(1915年)1月から2月にかけて新聞に発表された。死の前年、「こころ」と「明暗」の執筆の間に書かれた。

冒頭部を書き出してみる。

硝子戸の中から外を見渡すと、霜除けをした芭蕉だの、赤い実の結った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数えたてる程のものは殆んど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうして又極めて狭いのである。

この頃、漱石は風邪気味で漱石山房の外に一歩も出ず、気分もどこか落ち気味であった。
僕も物書きの端の端の方に座っているが、まとまったものを書く時は、おおむね気分は落ちるものだ。視線は深く内省的になり、読者にどう思われるかがまとわりつくような懐疑になる。重いテーマを扱った「こころ」や「明暗」を書いていた漱石もそうだったに違いない。

冒頭の後の部分に、「世の中の人は忙しいのに、自分がこんな随筆を書くのは、『どれ程つまらなく映るだろうかと懸念している』」とあり、その懐疑的な胸のうちが感じ取れる。

硝子戸の中の書斎という動かぬ定点から世を見てみる。静かな眼差しで、社会のニュースという雑音を排し、自分の中の声や思いに耳を澄まそうというのである。新聞には毎日、一話ずつ発表された。

全39の小品のうちには、愛犬の話やら、江戸の話やら、幼な馴染みの話やら、作家生活にまつわる話など様々なものがあるが、漱石の元に尋ねて来た来客の話がかなりあって、それが面白い。

漱石は書斎にこもりながらも、書斎に人を招き入れていたのである。しかも初対面で関係の曖昧な人も硝子戸の中に入れているのである。

大作家でありながら、かなりオープンな人付き合いだったことに驚く。それは今のセキュリティにうるさい時代から見るゆえなのか。それとも漱石自体がそのような開閉しやすいドアを持っていたのか。

その中でも、六、七、八話の「女」の話は小説に発展しそうなドラマ性があり、興味をそそられる。こう始まる。

私はその女に前後四五回会った。

ある日、「女」は漱石山坊に来たが紹介状がないため帰っていった。翌日、手紙を置いていき、それに漱石は返事を書き、面会日を指定した。面会日、「女」は派手な色(色は不詳)の羽織を着て漱石の元に現れ、漱石の作品を褒めまくる。1週間後、「女」はまたやってきて、また漱石の作品を褒めまくる。3度目に「女」が来た時、しきりにハンケチで涙を拭う。そして、自分の経験した悲痛な経歴(おそらく恋愛経験)を小説にしてもらえないかと言う。漱石は何か興味を惹かれて、その経歴を聞くことにし、次の面会日を指定する。しかし、「女」はその面会日に友人の女性を連れてきて、世間話をして帰る。「女」がまた来たのは、次の日の晩であった。晩に訪問者を家に入れるのは、かなり特別なことだと思われるが、彼女はついに漱石の前で、経歴を語り始める。もう小説にしなくていいので、ただ聞いていただければいいと前置きしながら。

漱石は具体的には「女」の話をほとんど書いていないが、以下の文がある。

女の告白は聴いている私を息苦しくした位に悲痛を極めたものであった。

あとの顛末は原作を読んでいただくしかないのだが、この頃、漱石が死についてある強い思いがあったことを書き加えておく。その思いは「則天去私」の彼の哲学とも繋がっている。
「死は生よりも尊い」という言葉が常に胸を往来しながらも、生に対して執着し続ける。その自分を内側から見つめ続けている漱石がいた。

今の時代にこの作品を読むと、世の中の動静や情報といった外側からのドラマ性ではなく、自分の内側からのドラマ性こそ、書くことの本質であるように思えてくる。

「硝子戸の中」。今の価値観だと「いいね!」がつきにくいであろうが、人生に寄り添う深みを持った、この小品をぜひ味わってほしいと思う。


(おわり)

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