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映画短評第六回(2)『パラサイト‐半地下の家族‐』/社会構造の象徴化、それをどう見るか

 人が作り、人が見る限り、映画には必ず意味が生じる。物語の舞台がアメリカでも韓国でも、海底でも宇宙でも、用意されたものには必ず意味があり、例外なく"象徴的"なのだ。
 アジア映画初の米アカデミー作品賞受賞作だが、なぜここまでの評価を獲得することが出来たのだろうか。それは意味の明瞭さに理由がある。
 今作で描かれるのは、現在進行形の「格差」だ。それは、坂を上って上流階級に近づき、階段を下って貧困の中心へ、というように、移動の中にハッキリと仕込まれている。さらには、登場人物たちの言葉遣いや仕草、舞台となる屋敷の構造、食事の描写に至るまで、金持ちと彼らに寄生するキム一家の差を強調する要素がいっぱいだ。
  また、観客が格差を観察する今作の構造にのめり込んでしまうのは、一連の描写がキム一家=余裕のない人々に寄り添っているからでもある。金持ち一家の行動や言動は、他者に無関心かつ差別的な、まさに嫌な富裕層の象徴として描かれる。それでも観客から見れば、キム一家の行動にこそ倫理的な疑問や反発を覚えるはずである。そこを観客が一家に同調し、彼らの行動と結果に一種の快感を抱けるよう、(少なくとも前半は)様々な工夫がされているのだ。それによって、キム一家を普通の人々に近い象徴として置き、観客を彼らの側に引き込むことに成功している。後半の展開に意外性や悲劇性をより強く感じさせるためにも、これは効果的な表現だ。
 ただし、こうした目的のための象徴化には危うい側面もある。今作は人物(厳密に言えば集団)を象徴化することで、個々に持つ背景や心情を薄くしてしまっている。演技や衣装などの細部に宿る実在感が観客の同情や怒りを集めても、内面に重なる部分が無ければ、彼らは単に物語を進めるための駒と認識されかねない。加えて、裕福と貧困の間にあり、観客の大半が属している中流階級も存在ごと省略されている。先日のTV放映直後に浮かび上がった、いくつかの非常に“無関心な感想”*も、こうした象徴化から生じるものかもしれない。
 一方で、それを覚悟のうえでこうした表現になっていることも事実だ。ポン・ジュノは、同じく階層社会を描いた『スノー・ピアサー』でも、同じような象徴化と省略を行っている。同監督がこの題材を扱う場合に、最も関心があるのは人間でなく、人間が生活する社会そのものだということだろう。
こうした諸々を踏まえたうえでも、あらゆる要素が過不足なく組み合わさっていることは間違いない。今作の悲観的な結末は、観客の視点が下にあるからこそ重要な余韻を残す。「今資本主義の下で生きるとは、これを受容することだ」と、限りなく直接的に見せ、改めて認識させてくれる。
 消費するのでなく、一つの見方として捉えられれば、観客側から何かが変わっていく。それができれば、今作の結論をひっくり返せる日が来るだろう。まだ遠いかもしれないが……。
(文・谷山亮太)

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