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映画時評第十四回『蘭若寺の住人』『サスペンデッド』/閉塞する映画

 今年2月に開催された芸術祭〈シアターコモンズ〉のテーマは、「Bodies in Incubation 孵化/潜伏するからだ」と掲げられた。この芸術祭で公開された作品から、今回は2本選んで紹介したい。一作は台湾の巨匠の、もう一作は日本の新鋭監督の短編映画である。
 ツァイ・ミンリャン『蘭若寺(らんにゃじ)の住人』はVR映画であり、体験者はVRヘッドセットを装着し、ツァイのドローイング作品が展示された部屋の中、椅子に座って鑑賞する。映画は森にある廃墟を舞台とし、ワンシーンを除き、カメラは廃墟から外に出ることはない。このカメラは鑑賞者の視点であり、VRの鑑賞者が首を左右に向けると部屋の中を見渡すことができる。そこにはリー・カンションが具合悪そうに体をうずめている。廃墟には女性も登場するが、アスファルトだけが広がる空間にひとり女性を捉えるショットを見ると、彼女もまたリーと同様、この廃墟内に理由なく囚われているのだと理解できよう。
 中村祐子『サスペンデッド』はAR映画と銘打たれている。この作品は、参加者が小さな部屋へ案内され、その空間でVRヘッドセットを装着して鑑賞する。装置をのぞき込むと、鑑賞者の居る部屋の中にスクリーンが出現し、ある家族の日常風景を切り取った映画が、そのフレーム内に映し出される。映画は鑑賞者が居る部屋と舞台を同じくしており、基本的にそのスクリーン上で展開されるドラマもまた、部屋という空間から外に出ていくことはない。
 ツァイ・ミンリャンと中村祐子の映画で決定的に異なるのは、この閉じ込められた状況に対する彼らなりの回答である。ツァイの映画が、廃墟内で一人孤独に食事をとるリー・カンションの姿で終わっているのに対して、中村の映画は、最後のスクリーンを部屋の玄関口に出現させ、そこに、扉を開けて外へと出てゆく少女の姿を映し出して終幕を迎える。つまり、最終的にその閉塞のうちに留まるのか、あるいはそこから逃れ出てゆくのかで、両作品は正反対のベクトルを持つように見えるかもしれない。
 気になるのは、『蘭若寺の住人』でのリー・カンションが原因不明の病に侵されているという設定である。これと類似した設定が『サスペンデッド』にもあり、この映画における少女の親も、やはり病にかかっている。これらの病は、両作品ともその結末にかけて完治することはない。対照的と思われた2作品に共通するこの閉塞空間における「不治の病」は、今を生きることの「気分」を的確に言い当てていると、私には思われた。
(文・中島晋作)

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