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映画時評第十五回『ライク・サムワン・イン・ラブ』

 2012年に日本で公開された映画「ライク・サムワン・イン・ラブ」では、色とりどりの東京の夜景と対照的な都市人の孤独が、80代の元大学教授と、デートクラブで働く女子大学生、そしてその恋人であるヒステリックな青年のつきあいを通じて素朴に描写された。しかし、信じがたいことに、この日本的な気配の濃い映画は、イランの巨匠監督アッバス・キアロスタミの手によるものだった。
 映画の背景を知らないままの観客は、映画のオープニングに戸惑いをおぼえるかも知れない。本作のオープニングシーンでは、画面には複数の被写体が映っているため、声の主を確認できない。それらは画面外からずっと喋っているのだ。ある役が登場すると、画面外でセリフを喋っていたそのキャラクターがやっと現れる。キャラクターの登場の滞りと画面内の被写体の不在という表現手段によって、観客は受動的に画面内の人々や環境を分析しなければならず、同時に環境によって強められた不安定さと見知らぬ感覚に抵抗をおぼえる。アッバスは外国人として東京の都市について未知のものを感じているのかもしれないが、一方で、人間関係を描くのが得意なアッバスは、都市の中の偶然に焦点を合わせてみたいのかもしれない。彼は特別なストーリーを選ぶのではなく、ある「ストレンジャー」のストーリーを偶にカメラの前に持ち込もうと試みているのである。
 孤独とはエキゾチックな情緒ではないはずだ。物語の背景や設定が幾ら変わっても、孤独感は常に観客の共感を呼ぶことができる。老教授のアパートに向かっている間に、タクシーに座っている女子大学生は窓の外のにぎやかの市街を眺めながら、田舎からきたおばあさんからの伝言メッセージを聞く。おばあさんがある広場で待っていると聞いたとたん、彼女は運転手にその近くまで行ってもらうのだが、遠くから見るだけでやめにする。このシーンでは、役のセリフは少なく、声もほぼおばあさんの伝言で埋められていたが、ネオンサインの光に反射され、車の窓に映った大学生の顔と、14分間にわたる車内シーンで時に撮られた運転手の無表情から、強い孤独感が感じられたことは言うまでもない。
 最後のシーンでは、老教授が恋人から暴力を受けた女子大学生をアパートに連れて帰り、彼女を守ると約束するのだが、短気な青年が老人の居所を見つけて大騒ぎをしてしまう。青年が老人の住む家の窓を割り、映画は老人の慌てふためく姿で幕を下ろす。その姿には、まるで妻の立ち去ったことに対する孤独感と、妻と顔が似ている女子大学生への慈愛と、目の下で憤慨している青年に対する戸惑いと、今後の世の中からの勝手な批判に対する恐怖が含まれているようだ。アッバスは最後まで人物の心理の複雑さを余すところなく描き出したのである。
            (文・金暁君)

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