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映画短評第七回『もう終わりにしよう。』/自閉する映画

 チャーリー・カウフマンが去年Netflixで新作を発表した。カウフマンはもともと脚本家としてキャリアをスタートした人である。スパイク・ジョーンズやミシェル・ゴンドリーら若手の映画監督と組み、『マルコヴィッチの穴』や『アダプテーション』、『エターナル・サンシャイン』といった作品群をヒットさせ、世に名を知らしめた。監督業に進出し、今は亡きフィリップ・シーモア・ホフマンを主演に迎え、『脳内ニューヨーク』を撮り上げたのは2008年のことである。
 カウフマンの映画は、誤解を恐れずにいえば「頭でっかち」な映画である。たとえば、『アダプテーション』の中の脚本家は自分の世界に閉じこもり、周囲に対する妄想を膨らませて、ついには現実の人間を自身の妄想の世界に引き込もうとする。『脳内ニューヨーク』の劇作家は、頭の中にある舞台を現実世界に創り出す過程で、現実と脳内の虚構との区別がつかなくなってゆく。虚構が現実に先行する。脚本家であるカウフマンにとって、映画とは映像ではなく、はじめに言葉(脳内)ありきなのではないだろうか。
 『もう終わりにしよう。』(原題:I’mthinkingofendingthings)は、1組のカップルが破局を迎えること、ただそれだけを2時間かけて描写し続ける映画である。季節は「終わり」を強調する冬、外は雪が降り続けている。一人の女性が、ジェイクという男性の運転する車に乗っている。車の向かう先はジェイクの実家であり、彼は両親に彼女を紹介しようと考えている。しかし、一方の彼女(なぜか映画では名前が明かされることはない)は、ジェイクとの関係を終わらせようとしているのである。映画は、この男女が車の中で会話をするシークエンスがほぼ大半を占め、2時間のうち1時間半ほどはすべて二人の議論、あるいは彼女の独白で構成される。ひたすらに言葉が羅列され、映像は停滞する、まさに言葉の映画となっている。
 二人の関係性は、表面的には良好のように見える。ジェイクは優しく、教養があり、彼女の存在も尊重している。しかし、言葉にはできない決定的な「何か」によって、彼女はジェイクを見限っている。二人でいるとき、彼女は救いがたく孤独なのである。この絶望的なまでの孤独は、ジェイクの家で彼の家族と過ごしている空間で頂点に達する。それは、彼の母親と父親が突然老けたり、若返ったりする奇妙なシーンで象徴される。人間は、互いに独立した時間を生きていて、それらは決して交わることがないとでもいうような。
 映画の途中で、ジェイクがアンナ・カヴァンの小説『氷』に言及する。カヴァンの『氷』は著者が死ぬ前年に書かれた最後の小説であり、悲壮ともいえる終末観に貫かれた作品である。氷に閉ざされた世界、「私」や「少女」といった匿名性の高い登場人物、物語に通底する「死」の予感は、映画のもつ厭世観とほとんど合致する。『もう終わりにしよう。』の「終わり」とは、私たちの人生の終わりに他ならないのである。
(文・中島晋作)

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