映画短評第九回『すずしい木陰』/映画を呼び出すということ
『すずしい木陰』の上映時間は96分。そしてこの映画は1ショットで終わる。緑に囲まれた木陰の中にハンモックがかけられており、そこに若い女性が寝ている。その姿をフル・ショットで、固定されたカメラが捉えている。つまり観客は、寝ている女性を1時間半ものあいだ見続けるだけなのである。途中、2回だけ女性が起き上がるが、それ以外は何も起こらない。何も起こらないまま映画は終わってしまう。
守屋文雄はこの映画を演出するにあたり、明るい気持ちで居ることを常に心がけたという。そうすれば映画はうまくいくと信じて。撮影に出発すると、途中のホームセンターで食材を購入する。これは撮影後のバーベキューのためであり、守屋によれば、このバーベキューは撮影と同じくらい重要な位置づけであるらしい。撮影場所の近くには小さな祠があり、マムシに嚙まれないように気をつけながら手を合わせる。撮影時には、カメラの位置と、唯一の役者である柳英里紗にいくつかの指示を出し、あとはモニターを見守るのみである。撮影が思うように進まなくなると、全員で温泉に行った。
守屋の「演出」は、外から見るとほとんど何もしていないかのように見えるかもしれない。実際、守屋自身も自分は現場であたふたしていただけだったと語っている。しかし、本当にそうか。かつて脚本家の高橋洋は、その著書の中で、映画とは「それを作ろうとする人間の意図をことごとくくつがえす裏切りの場においてしか自らを開示しない」と主張し、それを「映画の魔」と名付けたのだった。「映画の魔力は、形式という限界と、無意識の欲望の響き合いの中で、人知を超えて発動する」と主張する高橋にとって、映画とは作り出すものではなく、呼び出すものなのである。守屋の演出はこれに近い。夜のバーベキューも、祠で手を合わせることも、温泉に入ることも、すべては映画を呼び出すための儀式に他ならない。
思うように撮れなかった撮影を終え、温泉に入ると、女湯から出てきた柳は守屋に笑顔で「わかった」と告げたという。その後の撮影が成功したことは、映画を見れば分かるだろう。風が吹き、太陽が動くありさまが見え、木々のざわめきが聞こえる。何も起こっていないはずの画面には、かくも多様な世界が動いていることを、この映画は教えてくれるのである。
(文・中島晋作)