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映画短評第二十二回『ノー・タイム・トゥ・ダイ』/人間になった007

 シリーズは、主人公のすばやい銃撃と、血に染まる銃口(ガン・バレル)によって幕を開けてきた。007の抜け目のなさ、敵に囲まれた状況、崩れない一種の“優雅さ”。ジェームズ・ボンドが持つ魅力と危険性を象徴するオープニングだ。だが、主演が変わっても変わることなかったこのシークエンスが、今回は変化を見せる。血が流されることはなく、銃を構える007は白い背景の中に溶け、消えていく。いったいこれは何を表しているのだろうか。
 国際的犯罪組織スペクターの首領ブロフェルドを捕らえ、MI6を去ったジェームズ・ボンド。恋人マドレーヌと共に幸せを掴もうとする彼だったが、そこに過去からの魔の手が忍び寄る……。
 物語は、イタリアの世界遺産マテーラで始まる。マドレーヌを助手席に乗せ、愛車を走らせるボンド。その姿に、かつて二代目007ジョージ・レーゼンビーが『女王陛下の007』で演じた、人としての幸福を追求しようとした男が重なる。
 マテーラは祭りの火に照らされている。人々は思い出の品を持ち寄り、それを火にくべる。そうして物にこもった様々な想いを清算するのだ。ボンドがここを訪れたのも、過去にけじめをつける為だ。彼は一人の女性の墓に向かう。その女性ヴェスパーは、クレイグボンドの初任務『カジノ・ロワイヤル』において、彼の目の前で死んだ最初の恋人である。007としての活躍の過程で多くの女性を死なせてきたボンドにとって、彼女は後悔の対象であり、シリーズ全体を通して積み重ねてきた女性嫌悪的行動の犠牲者の象徴とも言える。ボンドは墓の前で、「許してくれ」と書かれたメモを燃やす。彼がマドレーヌとの生活を“人として”送るためには、過去の罪が許される必要があるのだ。しかしその望みは、痛みと衝撃を伴って拒絶されてしまう。墓はスペクターによって爆破される。誰を信じていいかわからなくなった傷心(身)のボンドは、恋人を捨てて孤独を選ぶ。レーゼンビーボンドがそうであったように、人としての幸せがボンドには決して許されないと、改めて証明されてしまったのだ。
 ボンドはジャマイカに身を潜め、人を避けて暮らし始める。しかし幾度となく世界を救ってきた実績が、ボンドを再び戦場に導くこととなる。そこで彼が目にするのは、ボンド=007の不在の間に変化した世界だ。そこでは、今までボンドの助けがないと“何もできなかった”女性たちが、自分の身を守り、守るべき何かのために行動を起こしている。ドレスを身にまとい美しく敵を倒すパロマ(アナ・デ・アルマス)、そして00の称号を持ち特殊装備を駆使するノーミ(ラシャーナ・リンチ)が諜報活動の主役になり、ボンドと同等の活躍を見せる。さらに、敵の基地に囚われていた恋人のマドレーヌは、機転を利かせて単独で脱出を成功させる。かつて“ボンドガール”と呼ばれた女性たちにとって、ボンドは無用の存在になったのだ。だが彼は、その状況に対して悲壮感を一切抱いていない。彼女たちの活躍を笑顔で賞賛し、握手を交わして去っていく。罪と向き合ったボンドは、自分の境遇にすでに気付いているのだ。そもそも本作のボンドが求めるのは、戦場における居場所ではない。彼には守るべき愛する人がおり、世界を“彼女ら”が安心できる場所にすることを目的に行動している。それはコネリーらの遊戯性からはほど遠い、非常に人間的な動機だ。
 そんなボンドに、本作は究極の決断を迫る。悪党の策略によりボンドは、愛する人々を死に追いやる“凶器”にされてしまう。ミソジニーからの脱却を望んだ人物が、女性へ無条件に害を与える存在になってしまうのだ。任務を終えて帰還することは、世界的危機の回避と同時に、さらなるミソジニーの連鎖、無実の人々への加害が続くことも意味する。そこでボンドがするのは、今までのどの007もしなかった行動だ。この行動こそ、ダニエル・クレイグと製作陣が導き出した現代におけるジェームズ・ボンドの在り方を表すものであり、いつかはたどり着くはずだったシリーズの終着点である。
 もちろん、これによって007とその表象するものが消えたわけではない。Mという男性中心主義的トップの現状維持、「JAMES BOND WILL RETURN」という言葉によって、本作のボンドの出した結論は、一時的な効力しか持ちえない。もっと言えば、「家族を持つことこそ幸せである」というステレオタイプに着地してしまったと言うこともできるだろう。しかし、50年前には許されなかった“人間になるという望み”が、遂に報われたのだ。「ボンドが007を辞められる世界」、そこには確かな希望がある。
(文・谷山亮太)

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