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映画短評第十八回『シャン・チー/テン・リングスの伝説』/家父長主義からの解放

 父と子の関係は、数多くの作品においてその中心の主題として取り込まれてきた。先日の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』がまさにそうであったように、ときに何かを巡る(『エヴァ』では母だった)ライバルであり、ときには互いを映し合う一対の鏡像として機能する。父親が乗り越えるべき障壁・悪役として置かれているうえで、エディプス・コンプレックスの構造は否応なく作品に刻みこまれてきたのだ。

 サンフランシスコでホテルマンとして働く青年ショーン。ある日のバス通勤の最中、彼は謎の刺客に襲われるが、驚異的な身体能力で全員を撃退する。彼の正体は、犯罪組織「テン・リングス」を指揮する男ウェンウーの息子、シャン・チーだった……。

 本作の発端は、父ウェンウーが経験した妻の喪失である。家庭を持ち、暴力とは縁遠い幸せな生活を手に入れたが、過去の行いが最愛の人を死に追いやる。すると彼は改めて暴力に活路を見出し、自分の親しみある男性至上主義的な環境をより強固に再構築してしまう。子供たちはそんなウェンウーの下を離れ、関係を抹消して独自の生活を歩み始める。魔法の武具の力で千年以上生きながらえている父親が、一家離散というさらなる悲劇を招くという構図は、家父長主義の限界を物語っていると言える。
 去ってしまった子供たちと幸せだったあの頃を取り戻すため、ウェンウーはある計画を強行しようとするが、その末路には世界の終わりがある。本作のヒーロー、シャン・チーは、世界を救うためにも家父長の権化たる父と対峙しなければならないのだ。

 しかしシャンは、父から教えを受けた戦士。力は拮抗しても技のぶつけ合いでは勝つことができない。そこで彼が学ぶのが、母の育った村の“龍の伝説”である。敗北を喫し、父の願望成就が世界を亡ぼしそうになったとき、シャン・チーの前に龍が現れる。母は常に子供たちに龍の物語を聞かせ、龍の目のペンダントを渡し、一貫して龍との繋がりが強調されていた。シャンの目の前に現れたそれは、まさしく母親の化身であり、龍を味方につけた彼は、母の戦い方によって父に勝利する。
 ただそれだけでは、父を打ち負かし母の愛を手に入れるという、オイディプスの伝説の再生産に陥っていると思われるかもしれない。しかし本作では、決して父ウェンウーの意志の全てを否定せず、父親の克服を絶対的勝利とはしていない。彼の作った組織や考え方には確かに家父長主義の影が色濃く反映されているが、個人の根底には普遍的な家族への愛情があるからだ。凶行の末に現れた、真に世界を亡ぼしかねない脅威を目にし、ウェンウーは息子に、力の源である十の腕輪を継承する。そしてシャン・チーは、父の武具を、母親の論理で使うことによって世界を救うのだ。父の存在を取り込み、父母の愛情をもって自らの人生を歩み始める。家父長主義から脱却しながらも、それを捨てきれなかった人間を否定せず、次世代が自身の新しい世界を作ればいいと、この映画は語っている。
 さらに本作では、家父長主義下で軽んじられてきた女性の反抗が、主人公の妹シャーリンを通して描かれる。「父の帝国に居場所がないのであれば、自分の帝国を作るまで」と、最後まで意志を曲げない彼女には、父の呪縛などはなから関係ない。シャン・チーの葛藤と克服をエディプス・コンプレックスの延長と評す人があれば、間違いなくシャーリンに用意された結末には大いに溜飲が下がることだろう。
 シャン・チーは、全てが終わった後、今の生活があるサンフランシスコに帰ってくる。彼にもまた故郷への執着はなく、父の残した遺産を受け継ぐ意思もない。元からシャンは、仕事前に友人とカラオケができる今を心から楽しそうに生きているのだ。父と子の対決の物語だが、そこにエディプス・コンプレックスの悲劇性はあまり感じられない。その点も、アジア系俳優揃い踏みのハリウッド超大作であることに加えて、本作をエポックメイキングな一作と言うことは十分できるのではないだろうか。
(文・谷山亮太)

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