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映画短評第六回(1)『パラサイト‐半地下の家族‐』/『パラサイト』の図式性を擁護する

 第92回アカデミー賞で作品賞をはじめとした主要部門を獲得したポン・ジュノ監督の映画『パラサイト』は、一言で言い表せば「図式」の映画である。2つの家族と2つの家がある。貧しいものと富める者、それぞれが半地下と高台に暮らしている。貧者は下、富者は上という構図は、フリッツ・ラングが『メトロポリス』(1927年)で描いたディストピア世界を挙げるまでもなく、映画で繰り返し視覚化されてきたステレオタイプな構図である。ありきたりという意味で、このような作劇は、見る人によってはそれだけで批判の対象となる可能性があるだろう。ただ、この評では、そのようなステレオタイプ化=図式化こそが、この映画にポジティヴな作用をもたらしていると結論したい。なぜか。
 映画は2つの家族のうち、貧しいものの視点から物語られる。「半地下」に住むキム一家の生活は驚くべきものである。半地下の窓からは、絶えず道路からの砂埃が部屋に入ってくる。しかし電波は入ってこない。Wi-Fiがない。象徴的なのは、トイレの便器である。これが、住んでいる部屋のどの位置よりも高い。窓の外では、自分たちの目線の上で立小便をしている男が見える。排泄以下の生活。これが半地下に生きる人間の人生である。物語は、キム一家の長男ギウが、高台の豪邸に住むパク一家の家庭教師を務めることから始動する。
 映画で執拗に挿入されるのが階段のショットである。半地下から高台に移動するときに上がる階段や、高名な建築家が設計したとされる豪邸内部の階段。当然、先のステレオタイプ化された図式を踏まえると、これら階段のショットは2つの家族間の格差を象徴していると言えるだろう。
 しかし、映画には、もう一つの階段が存在する。それは、高台の豪邸内に隠された「地下世界」へと続く階段である。低地に貧民、高地に富豪、というステレオタイプな図式は、瞬間的に、この映画最大の見せ場で反転される。高台だと思っていた場所には、どこよりも深い、底なしの「闇」が存在する。『パラサイト』の図式性は、上下間の視覚的構造を作為的に作り出し、それを突き崩すことで、「闇」をどこまでも強力に描写する装置に他ならないのである。
(文・中島晋作)

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