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北海道日本ハムファイターズが5度のリーグ優勝・2度の日本一を達成できた理由

 2004年シーズンから本拠地を東京から北海道へ移転したファイターズはその後2016年までに5度のリーグ優勝、2度の日本一に輝きました。2006年に北海道へ移転後初となるリーグ優勝と日本一の栄冠を手にしましたが、東京時代の最後のリーグ優勝は1981年、日本一は1962年まで遡ります。リーグ優勝は四半世紀、日本一に至っては半世紀近く遠ざかっていたことを考えると、2006年〜2016年までの11年間はファイターズが最も強かった時代といえるはずです。

 2004年シーズンに新庄剛志さんが選手としてファイターズに入団、ファイターズが北海道へ根付いていく過程についてはニュースなどで何度も目にしたことがありますが、純粋に選手の編成面でファイターズがいかに成功したかについてのニュースや記事はあまり見たことがなく、当時は「新陳代謝が上手いチームだな」と何となく思っていました。しかし、ここ数年のファイターズの低迷ぶりを見ると、今はできていなかったことが当時はできていたはずだと思い、自分なりに分析しようと思いました。あくまで、1人の野球ファンの勝手な考察としてご覧になってください。

①ドラフトの成功

 ファイターズが強かったいちばんの要因がこれだと思います。ファイターズが25年振りのリーグ優勝、44年振りの日本一に輝く5年前の2001年のドラフトまで時計の針を戻して考えます。

 2001年以降のドラフトで入団した選手の中で2006年にチームの主力として活躍した選手は2002年4巡目指名の武田久投手、2003年4巡目指名の押本健彦投手、2004年1巡目指名のダルビッシュ有投手、4巡目指名のMICHAEL投手、2005年希望枠の八木智哉投手、4巡目指名の武田勝投手がいます。この5年間で2006年の優勝に大きく貢献した投手を6名も入団させることができました。ファイターズは1981年以降、リーグ優勝から遠ざかっていましたが、優勝のチャンスが全くなかったわけではありませんでした。1998年は7月が終わった段階で、最終的に優勝を果たしたライオンズに9ゲーム差をつけて首位を独走していましたが、8月と9月に大失速、結果的に3.5ゲーム差の2位、2000年もシーズン終盤まで優勝争いに加わっていましたが、最後は力尽きて、優勝したホークスと4.5ゲーム差の3位に終わりました。2000年前後のファイターズはビッグバン打線と呼ばれる強力な打撃陣を擁するチームでしたが、一方で慢性的に投手陣に課題のあるチームでした。ドラフトで主力となる投手を確保できたことと、投手が不利な狭い東京ドームから、投手有利な広い札幌ドームへの移転が追い風となり、2006年の25年振りとなるリーグ優勝に繋がったのだと思います。

 2007年・2009年・2012年・2016年、ファイターズが優勝したシーズンには必ず生え抜きの主力選手がいました。2006年の優勝に貢献した選手として紹介した6名以外ですと、2001年に自由枠で入団した江尻慎太郎投手、2002年に5巡目指名の小谷野栄一選手、8巡目指名の鶴岡慎也選手、2003年自由枠で入団した糸井嘉男選手、2005年高校生1巡目指名の陽岱鋼選手、2006年高校生1巡目指名の吉川光夫投手、2007年高校生1巡目指名の中田翔選手、大学・社会人3巡目指名の宮西尚生投手、2008年1位指名の大野奨太選手、5位指名の中島卓也選手、7位指名の谷元圭介投手、2009年5位指名の増井浩俊投手、2010年2位指名の西川遥輝選手、2011年4位指名の近藤健介選手、そして、2012年1位指名の大谷翔平選手、ここで取り上げたのは一部の選手で他にもファイターズの優勝に貢献した選手はたくさんいます。特に1巡目や1位指名の選手がチームの主力になったケースが多く、ドラフト戦略の成功が北海道移転後の5度の優勝に繋がっているといえます。

②ドラフトで補えない部分を外国人選手を含めた他球団から移籍した選手で補強

 この時期のファイターズのドラフト戦略が見事なのは間違いありませんが、ドラフトで全てが賄えるわけではなく、当然、チームの弱点となる部分は出てきます。しかし、ファイターズは他球団からの的確な補強でそれを補いました。新庄剛志さんが選手としてファイターズに入団した時は、もちろん北海道移転の象徴的な選手として、人気選手を必要としていたのもあるとは思いますが、純粋に戦力として必要な部分も大きかったはずです。

 長年、ファイターズの主力として活躍したフェルナンド・セギノール選手は2004年、稲葉篤紀選手は2005年から加入しました。優勝した年に外国人選手を含めた他球団から移籍をして活躍した選手としては、2006年は岡島秀樹投手、2007年は先発の一角として活躍したライアン・グリン投手とブライアン・スウィーニー投手、2009年はチーム最多の本塁打と打点を記録したターメル・スレッジ選手、先発として7勝を記録した藤井秀悟投手、2012年は先発として10勝を記録したブライアン・ウルフ投手、2016年は52試合に登板して1.07という驚異的な防御率を記録したクリス・マーティン投手、先発とリリーフで37試合・103.2回・8勝を記録したアンソニー・バース投手、主に先発で登板して7勝を記録したルイス・メンドーサ投手、39本塁打を放ち本塁打王に輝いたブランドン・レアード選手がいます。

③絶対的なエース投手の存在

 ファイターズが優勝した年の共通点を探してみると、絶対的なエース投手の存在が挙げられます。2006年・2007年・2009年はダルビッシュ有投手、2012年は吉川光夫投手、2016年は大谷翔平選手がいました。2021年・2022年のスワローズのように二桁勝利を挙げる投手が不在の状況で優勝するチームももちろんありますが、やはり、絶対的エースが存在するチームは「チームが連敗しても、この人が止めてくれる」という安心感が生まれたり、イニングを多く投げてくれることでリリーフ投手の負担を減らすことができるなど、数字以上の貢献度があります。ダルビッシュ投手と大谷翔平選手の存在は言うまでもありませんが、この2人がいない空白の2012年にMVPを獲得する活躍をした吉川光夫投手の存在は本当に大きかったです。

◯最後に

 私は埼玉西武ライオンズのファンですが、当時はファイターズファンが羨ましかったです。主力選手が抜けても、新しい主力選手が出てきて、少なくとも4年に1度は優勝する。2016年はライオンズが3年連続Bクラスに沈み、毎年のように主力選手が他球団へ移籍して、ファイターズの存在が眩しくて仕方ありませんでした。2016年、大谷選手が1安打完封勝利でファイターズをリーグ優勝に導いた試合、私は現地で観ていました。スコアは1対0でしたが、正直、その1点が果てしなく遠く感じるほど、大谷選手の存在は圧倒的でした。現地観戦でライオンズが負けて、あそこまで悔しい気持ちにならなかったのはこの時だけです。

 当時も今も大阪に住んでいる私は2016年9月26日に京セラドームで行われたバファローズVSファイターズの試合も現地へ観に行きました。優勝争いの中で戦う大谷選手を日本で見られる時に見ておきたかったからです。3塁側の内野席で観戦していましたが、横の座席にファイターズファンのおばあさんがいました。昭和の時代からファイターズを応援しているとお話を聞きましたが、「昔は優勝なんて全然できなかったのに、今は強くなって嬉しい」とおっしゃっていました。ファイターズが強くなると、ライオンズファンは正直困るのですが、このようなファンの方のためにも、ファイターズは頑張らなければいけないと思います。

 エスコンフィールドHOKKAIDOは確かに魅力溢れるボールパークだと思いますし、私も1度は現地へ行きたいです。しかし、ファイターズが強くなければ、いくら球場に魅力があっても、北海道の野球人気は下がると思いますし、パ・リーグも盛り上がりません。札幌ドームと関係が良くなかったことが原因とはいえ、人口が5万人台の都市にボールパークを建設した行動力は凄いの一言です。エスコンフィールドHOKKAIDOでのファイターズの成功が野球界の更なる発展に繋がると信じています。


○出典
・北海道日本ハムファイターズ 2023年4月17日
https://www.fighters.co.jp/

・NPB.jp 日本野球機構 2023年4月17日
https://npb.jp/


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