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第3話 午前十時の朝散歩 | 作者:水無月彩椰

──世界のすべてが、淡い色彩に包まれていた。否、それは色彩というよりも、遥か昔の思い出が色褪せていくような、モノクロともセピア色ともつかない、ただひたすらに、淡い色。それでいて、流水にも、玻璃にも似た、とびきり透き通った空気感のなかに、僕はいる。
 
 誰かと話しているような気がした。誰かの声が、薄く響いているような気がした。淡々と、けれども澄み渡るような、涼やかな、優しい声。この世界の雰囲気に僕は、いつの間にか呑まれている。どこか、懐かしかった。

 目蓋の裏を焼く日射しの明るさに、僕の意識はだんだんと浮上してきた。指先に触れるベッドシーツの感触が、いつもと違う。ほんの一瞬だけ訝しんで、それから納得した。窓枠の向こうに見える家並みが、どこか懐かしく感じる。昔からここに泊まった時は、必ずこのゲストルームで寝ていたな。隣を父と母に挟まれて、安穏と。

 ──両の腕を精一杯に伸ばしても、触れる温もりは見当たらない。その僅かな違いが、少しだけ、寂しい気がした。昇りかけた太陽の日射しを羽に浴びながら、窓の向こうに見える電線に留まって、烏が鳴いている。暖まりかけの部屋から逃げるように、僕は床に足をつけた。

 リビングへ向かう。窓硝子の向こうを、薄ぼけた空色が覆っていた。一直線に延びている水面を照りつけるように、日射しが燦燦と降り注いでいる。それを一身に受けながら、白波はソファに座ったままスリープしていた。

「……まだ寝てる」

 普通こういうのは、マスターが起きてくる前に、家事だのなんだのを済ましておくのがヒューマノイドじゃないのか。いくら娯楽用のバーチャル・ヒューマノイドとはいえ、そのプログラムが入っていないことはないだろう──と呆れながら、今の時刻を確かめる。デジタル時計の数字を見て、僕は思わず二度見してしまった。

「えっ!? ……あれ、なんで」

 ──十時。もう十時だ。いつの間にこれだけ寝ていたのだろう。昨夜に寝付いたのも確か、十時ほどだった。かなり長い時間、僕は床に入っていたらしい。
 
 いや、それより、問題は白波だ。マスターから特に指定が無い場合、どれだけ遅くても八時か九時には起きてくるようなヒューマノイドが、まさかここまで寝過ごしているとは。これも恐らく、寿命が近いせいなのだろう。

 ……というか、どうしてソファに寝ている。背中を預けているわけでもないし、前かがみになっているわけでもない。お手本のように背筋を伸ばして、そのまま不動の状態で目を閉じている。見た目は人間そっくりだから、むしろ怖い。もっと人間らしい寝方をしてほしい。てっきり昨夜は、部屋で寝たとばかり思っていたのに。

 とりあえず、呼びかけてみる。

「白波」

「……ん」

 返事した。割と反応はスムーズだ。

「僕、もう起きたから。白波も起きて」

「はぁい……。……ぁふ。おはようございます……」

「おはようございます」

 律儀に欠伸までした。芸が細かいなぁ。

 白波はそのまま軽く伸びをして、寝ぼけ眼をこすっている。寝起きで処理が追いつかないのか、『おはようございます』以外に話そうとはしなかった。蕩けたような──といえば聞こえがいい、つまるところ、締まりのない顔をしている彼女を横目に、僕は窓際へと立つ。

「白波は、その体勢で寝れるんだね」

「場所を取らないし、効率的なので」

「別に、ベッドで寝たっていいんだよ」

 「おじいちゃんもおばあちゃんも、出かけてるし」と僕は続ける。祖父のことを、死んだ、とは、なんとなく言いたくなかった。そのうち気まぐれに帰ってきそうな気がしているから、分かっていても、そう言ってしまう。

「では、今夜は、ベッドをお借りします」

「うん」

「あと、マスター。それと──」

「なに」

 白波は玄関の方を指さして、小さく笑う。

「少し着替えて、朝のお散歩。私、行ってみたいです」

 アスファルトに引かれた白線の上を、白波は歩く。切り石を積み立てた石垣からは、どこに土があるのか分からないほど、草木が鬱蒼と生い茂っていた。彼女の頭上に陰る枝葉のシルエットを一瞥しいしい、青青とした自然の匂いを、胸いっぱいに吸い込んでみる。温まりかけたアスファルトの熱気が、口の中を満たしていった。蒸れたような土草のそれと、あとは、潮風の匂いがした。

 街路灯から伸びる電線は、昊天に黒一本、世界の裂け目を見上げながら、僕と白波は、潮風のなかを歩く。アスファルトの上を、二人ぶんの影が揺らめいていた。道路は緩やかに曲がりくねって、ガードレールもその軌跡を追っている。沈んだ港の遙か向こうに、果てしなく、水平線が広がっていた。あとは、こんもりと聳えるお隣の島が、たった一つだけ。青青とした木々の緑が眩しい。

「いいですね、マスター。気分転換になりますねっ」

「うん。たまには散歩もいいなって思った」

「私、ここ一年ほど、おじい様と一緒に過ごすことが増えました。ただ、あんまり外出することはなくて……。理由は『経過観察』と仰っていました。今でも謎です」

「へぇ……なんでだろう。不思議だね」

「でも、今はマスターがマスターですからねっ」

 白波は僕の隣を歩きながら、拳一個ぶんだけ違う目線を合わせようと、上目にこちらを見る。その屈託のない笑みが、群青色の空に映える炎陽のようで、眩しかった。緩やかな坂ばいになっているアスファルトの向こうを、生まれかけの入道雲が昇っていく。それを遮る送電線が、右手にある山奥の鉄塔へと伸び続けていた。

「それより白波、これどこまで上がるつもり……?」

「もう少しですっ。学校と役場があるんですよ」

 白波は目線の向こうを、人差し指の先で示す。このあたりから、足元のアスファルトがコンクリートの舗装に変わっていた。ところどころ錆びかけたガードレールと併設するように、真新しいフェンスが立てられている。通学路の、いわゆる落下防止用のものだろう。この道路も高台だ。少し身を乗り出せば、簡単に落ちる。

「あっ」

 右手に、学校らしき建物を見付けた。蔦の張り付いた石垣が途中で切れて、ところどころひび割れている。それから、いかにもというようなコンクリート式の壁がフェンスを構えて、道のカーブに沿って続いていた。

 それを見上げながら道なりに上るうちに、段々とフェンスの向こうが見えてくる。芝生が一面に生えた、何も無い校庭の更に高台を、校舎が三棟に分かれて縦に並んでいた。敷地の隅にある百葉箱が、フェンスの陰を落として、物寂しげにぽつねんと佇んでいる。この殺風景さは、僕のいた都市部の学校では考えられない。

 ……水没していないだけ、まだマシか。

「こっちが学校、あれが役場です。お隣さんですねっ」

 白波が人差し指を向けた先──コンクリート造りの駐車場は、閑散としているせいか、やけに広く見えた。役場そのものの敷地も大きくはないせいか、建物の雰囲気と相まって、学校の離れ校舎のように思えてしまう。けれど奥の方に職員の車らしいものが何台か停まっていて、いくつか建っているプレハブ小屋の近くには、パラボラアンテナを備えた、古めかしい電波塔が聳えていた。

 アスファルトの延びる先を遠目に覗いてみると、山のなかに続いていくようだった。工場街というのも、あの辺りにあるのだろうか。道路が時折うねりながら、鬱蒼と生い茂る草木のなかに融け消えていく──自分の中にあるちょっとした子供心が蘇ったのか、どこか冒険をしてみたいような、そんな気持ちにさせられた。山に入って、山を超えて、その向こうには、何があるのだろう。

「マスター、そんなに先は行きませんよ?」

「うん、行かない。行かないけど──」

 僕は続ける。「──ちょっと、懐かしくなった」

「……そうですか」

 白波の玲瓏たる、或いは柔らかな声音が、途端に吹き付けてきた潮風に掻き消されてゆく。彼女はやや俯きがちに、左手の人差し指で横髪を掻き上げながら、頬を撫でるそれすらも厭わないような仕草で、優しく微笑んでいた。群青色の瞳には、入道雲の純白が浮かんでいる。着物の袂が風をはらんで、夏の匂いを運んでいった。

 僕はそんな彼女の雰囲気を、いや、雰囲気をも、懐かしく思ってしまった。初対面であるはずのバーチャル・ヒューマノイドを相手に、言いようのない既視感だとか、安堵のようなものを感じている。それが何なのかは、まったく思い出せない。けれどどこか、懐かしかった。瞳を射すあの夏にも似た、そんな懐かしさだった。

「マスター、そろそろ戻りましょうっ。十時半をだいぶ過ぎましたし、お腹が空いているのではないですか」

 白波はそう言って、つい先程まで歩いてきた、コンクリート舗装の道を指さす。校庭の隅で日射しを受けている遊具が、金属の鈍い光を放っていた。それを横目に見ながら、彼女はご機嫌そうに足を高く上げる。帰路につこうとしている背姿からは、食欲の色が滲み出ていた。

「そんなこと言って、自分が食べたいだけでしょう」

「べ、別にそういうわけじゃないですもんねっ。おじい様とは、いつも一緒に食事をしていました! その名残りなんです。マスターもお腹、空いたでしょう?」

 ……やっぱり、自分が食べたいだけなんだな。本来なら僕一人ぶんの食費で済むところを、白波のぶんまで賄わないといけなくなるのか……。ただでさえ海面上昇の影響で全世界の物流に支障が出て、物価が高騰しているのに。ポンコツどころか金食い虫ヒューマノイドだ。

 ただ、まぁ……。僕もお腹は空いたから、ここは素直に白波の言い分に従うしかない。ちょっと、癪だけど。

「……仕方ないなぁ」

 やれやれ、と溜息を吐きながら、彼女の隣に並ぶ。潮風に吹かれて揺れる髪が、爽やかな甘さを運んでいた。

「──おい、そこの二人」

 背中に投げかけられた、少し遠い声に、僕たちはふと振り返る。真後ろにはいない。あたりを見渡してみる。道路の向こう側、いない。役場の駐車場、いない。学校の校庭、いない。……いや、いた。校庭の奥、校舎へと続く緩やかなスロープの上で、遠目にも分かるほど、年季の入ったフェンスにもたれかかっている。その少年は何かを構えると、無言で静止したまま、こちらを見ていた。

「まだ動くな、そこで待ってろっ」

 彼がそう叫んだ直後、乾いた音が連続して響く。それが何なのか分からないまま、僕と白波はその場で呆気にとられていた。やがて足元に転がり落ちたそれを見て、あの少年が何をしたのか、自分はようやく気付く。

「マスター、これって……」

「……弾だ」

 こちらへ駆け寄ってくる少年を横目に、僕は足元に転がってきた、数発のバイオBB弾を拾い上げる。ということは、さっきの少年が構えたものって──、

「──ちょっと待て。話を聞かせろ」

 無愛想な面持ちで僕の前に立った少年は、手にアサルトライフルのモデルガンを構えていた。

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