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はっさくとダンスフロアとセパレート

 実家から送られてきたはっさくは、教室の片隅でここ1週間ほど置きっ放しにされている。
「あれ、美織先生。これって作り物?」
 ダンスフロアでシャドウしていた後輩の可奈ちゃんが、ふと気づいたようにはっさくに目を留めた。
「ううん、本物だよ〜」
「ずっと置いてありますよね」
「実家の庭で採れたの」
「食べたいです!剥いていいですか」
「もちろん」
 可奈ちゃんははっさくを持って、ワルツのステップを踏みながらスタッフの控え室に消えていった。
「ただいま」
 ドアベルがカラン……と儚い音を立てて、教室の入り口が開く。
「弘樹先生、お帰りなさい」
 生徒さんや他の先生たちの手前、私は笑顔で彼を出迎えた。
「今日のサークルはどう?」
「……いつも通りだよ。ああ、初心者の子が何人か入ったから、そろそろレベルを分けたほうがいいかもね」
「そう」
 何事もないように笑顔を交わし合う。
 けれど、お互い目が笑っていないことはよく分かっていた。

 弘樹とカップルを組んで8年。
 ジュニアの頃からカップル結成し、全日本の舞台でも戦い……プロデビューしてからは3年になる。
「お。可奈ちゃん、はっさく剥いてくれたの」
 控え室に入っていった弘樹が、テーブルの上のはっさくをひとふさヒョイっとつまみ上げた。
「ん、ちょっとパサついてる」
「そりゃ、弘樹先生、ずっと食べないんだもん」
「剥いてくれれば食べるよ」
 なんで私が剥く前提なんだろう。
「可奈ちゃんは気が利くね」
 私が気が利かないように聞こえるけれど、あなたが剥いたっていいんだけどね。
「でしょ!?私、踊れるし、気が効くし!……なのに〜」
 心の中でだけ呟いていると、可奈ちゃんがスマホの画面を見つめながらテーブルに突っ伏した。
「なんでリーダーが見つからないの〜」
「また……お見合いダメだったの?」
 可奈ちゃんのスマホの画面に、ちらりとリーダーパートナー募集の掲示板が映っている。
 社交ダンスでお見合いというのは、いわゆるカップルを組む相手を探すために練習してみること。
 社交ダンスは誰と踊ろうが自由だけれど、競技会に出場する我々選手は決まった相手と競技団体に登録をしなればならない。
「美織先生と弘樹先生はいいなあ。ずーっとカップルカップルで」
「……距離が近すぎるのも、いろいろあるけどね」
「公私ともに仲良くできて、ラブラブで、一緒に住んで……私もそういうのがいい〜。それで勝てたらもっといい〜!」
「そうだね……」
 私たちの会話を、聞くともなしに聞いていた弘樹が最後のひと房をつまみ上げた。

「じゃあ、可奈ちゃん。俺とそうする?」
「…………はい?」
 言葉を失った。
「俺は、それでもいいよ」
「あの……弘樹先生」
 可奈ちゃんもまん丸な目を更に丸くして、弘樹と私を交互に見た。
「……冗談ですよね?」
「さあ?」
 私の方を見ずに、弘樹の視線がまっすぐに可奈ちゃんだけを捉える。
 可奈ちゃんの表情にも期待するような色が浮かんだ。

 解消してしまえば、カップルの女性には何もない。
 登録したカップルでのクラス……私たちならA級は男性のもの。A級で一定の年数を経過すればジャッジ資格が与えられるけれど、そのカウントも女性はゼロに戻る。
 そして生徒さんの大半は女性で、男性の先生についている。3年目の私が、弘樹のサポートではなく単独で教えている生徒さんは数える程。弘樹と一緒に住んで羨ましい……というより「弘樹と一緒に住まないとやっていけない」が正しい。

 つまり経済的基盤も、踊る相手も、これまでの実績も何もかも失う……
 何もかも──

 弘樹と踊る感覚が、変わり始めていると気づいたのはいつのことだったろう。
「ねえ……今のLODってもう少し壁方向じゃない?」
 フロアでは進む方向にLODというルールがある。なんだか微妙にずれているような気がして、弘樹の腕の中で迷子になる感覚があった。
「……じゃ、ない」
「え?」
「今のであってると思うけど」
「私はズレてたと思う。動画撮ってみてもいい?」
「そこまでする?」
 呆れたような弘樹の顔を、ムッとして思わず見つめた。
「大事なことじゃない?」
「まあ、いいけど。やってみれば」
 スマホを教室の隅に置いて、録画を押してもう一度踊ってみる。
「ほら、ズレたりしてないじゃん」
 二人で動画を確認すると、確かに今度はバッチリ合っていた。
「だって……今のはズレた感覚なかったもん。さっきのはズレてたんだってば」
「だから、さっきも今も一緒だって」
「一緒じゃない、絶対に」
「とにかく、今と同じように踊ればいいんだろ?」
「……」
 この場合、次回以降同じように踊ればいいという問題ではない。
 問題は、明らかにミスをしていてそれがパートナーである私に伝わっているのに、弘樹がそれを認めないということなのに。

 家に置いておけば剥いてくれたはっさくも、いつしか剥いてタッパに入れておかなければ食べなくなった。
 そのうち、私はそれすらやめて……届いて数日経っても放置されているようなら、教室に持ってくるようになっていた。

 弘樹と可奈ちゃんは、次の日から一緒に練習を始めた。
「……」
 お教室の生徒さんや同僚、オーナーがなんともいえない気遣わしげな表情で私の方を伺う。
 カップル解消届にハンコを押す日もそう遠くないだろう。

 ペアで踊る心が震えるような楽しさと恐ろしさは、経験しなければわからない。
 腕を通して、背中を通して……全身で相手の感覚が伝わってくる。
 男性がリードして、女性がフォローすると言われているけれど、フォローは次のリードになり、お互いがお互いを動かし支え合っている。
 かみ合っている時はいいけれど──
 そうでない時もたちどころに分かってしまう。
 一人で踊るのとは違う、1+1が2にならずに無限に広がる感覚……二人だからこそ生み出せるパワーとスイング。虜になってしまったからこそ、弘樹とはそれを生み出せないことに私は餓えていた。

 弘樹と解消すれば何もかも失い、弘樹と組んでいても踊る楽しさを失い続ける。
 前にも後ろにも行けずに、ただ踠いている時間だけが流れる。
「美織ちゃん、アランから電話よ」
 ドイツにいる海外のコーチャーから国際電話が入ったのは、そんなジレンマに苛まれて数ヶ月が過ぎたある日のことだった。

 アランについて日本にやってきたユージィンと会ったのは、それからさらに1ヶ月後のこと。
 ひとしきり踊ってみて、思った以上にしっくりきたことにびっくりして二人で休憩する。
「なんで日本では男性がリーダーで、女性がパートナーっていうの?」
 私たちと同じくアランに師事しているユージィンを、紹介されたのだった。
「進む方向を決めるのが男性だから?」
「変なの。実際のフロアでは女性だってリードするのに」
 ユージィンは私が持ってきたはっさくを見て、目を輝かせた。
「わお、オレンジだ!」
「違うよー。これは、はっさく」
「ハッサク?」
「ジャパニーズオレンジかな?でもオレンジより酸味とか苦味が強いの。美味しいよ」
「食べていい?」
「もちろん」
 ユージィンは立ち上がると、手で皮を剥がそうと試みる。
「硬っ!」
「ぷっ……手では無理だよ」
 控え室からナイフを持ってくると、ユージィンが手を差し出した。
「え……?」
「……それ、貸してくれるんじゃないの?」
「……剥いてくれるの?」
「もちろん……なんで?」
「ありがとう……」
「どういたしまして」
 鼻歌を歌いながら、ユージィンは器用にはっさくの顔を剥いていく。

 なんだろう……久しぶりの感覚に胸の奥がほっこり温まる。
「ミオリ、知ってる?海外ではシンクロラテンっていう競技部門があるんだよね」
「シンクロラテン?」
「うん、女性同士、男性同士で踊れる競技部門。女性コーチャーも少し活躍の幅が広がってるみたい」
「へえ〜」
「ミオリみたいに悲しい解消じゃなくて、もっと発展的にセパレートしたり、また組んだりができるかもしれないね」
 スマホで動画を検索してみると、海外の女の子たちがお揃いの衣装で可愛らしく踊っていた。
「可愛い!」
「でしょ、僕も好き」
「同じダイレクションとルーティンで踊るんだね」
「そうだよ。もうちょっと幅が広くてもいいと思うけど」
「私もそう思う」
「気が合うね……ん」

 ユージィンがヒョイっとはっさくをつまんで、私の口元に差し出した。
「ねえ、ミオリ。僕と組んでくれる?」
「……」
 了承の合図のように、はっさくをパクリとユージィンの手から口に運ぶ。
「よろしくお願いします」
 苦味と酸味の後に……爽やかな甘みが口いっぱいに広がった。


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