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【日記】唐突に思い出した認知症で書家だったじーさんの話

昨晩、なぜか唐突にじーさんのことを思い出した。なんでだろうと考えて気付いた。天井を見上げて、何かのシミがあったからである。

じーさんは認知症で、頭はすっかりボケてるくせにめっちゃパワフルに徘徊する人で、晩年すこぶる世間の迷惑でしかなかった。一度、高速道路でNEXCO東日本さんに保護された時は、謝り倒すしかなかったらしい。その頃、私は子どもだったので私が頭を下げたわけではない。

ひと頃、徘徊する認知症の家族が付近の鉄道を止めてしまい、家族がちゃんと見ているべきかどうかの裁判があって、それは高齢化社会が負うべき社会的負債だとかいう判決が出たが、私は拍手喝采した。
じーさんの介護をしていた頃は、加山雄三さんが家族を施設に入れて叩かれるような世の中であった。冗談じゃない。この負債を家族だけで負ったら、崩壊する家庭ばかりであろう。

天井のシミに話を戻すと、じーさんは才能も何もない孫に書家の道を押し付け、教えている最中に気に入らないことがあると、墨の入った硯をぶん投げるような人であった。ちなみに外面はよく、地域の民生委員だの、青色申告の相談役だのやっていたらしく、教室用に設けた部屋は綺麗なものだった。一方、自分が練習する&孫や内弟子に教える部屋は墨だらけ。ばーさんやかーさんは頭を悩ませていた。

じーさんが死んでしばらくして、我が家はその部屋をリフォームした。壁や床を張り替えて部屋で綺麗になったなーとボーッとしてたら、びっくり。天井にまで黒いシミがあるではないか(後に再リフォームした)。

それで、天井の汚れを見つけた昨今、ほぼ思い出すこともなかったじーさんを思い出したんだから、人間の記憶ってのは不思議なもんです。

じーさんを懐かしいとは思わない。

シベリア抑留の生き残りで、その功績で時の内閣から銀杯を貰ったことを終生誇りにしていた。

今思うと、凍土の中から見張りの目を盗み作物を掠め取ったり、仲間から奪った者が生き延びたと言っていた。自分は偶々運良く生還したというが、もしかしてじーさんも仲間を売って生き延びたのかもしれない。
偏屈で頑健な人だった。
徘徊は罪悪感がさせたのだろうか。

もっと話を聞けば良かったとは思わない。

私は、事情はどうあれ、死んだ仲間を犠牲にして生き残ったことで貰った銀杯を誇りには思えない気がする。なったことないから、知らんけど。

とにかく、孫には押し付けがましい人だった。なぜか家系は異なるのに、うちはとーさんも押し付けがましい人で、私は両親&祖父から習わされたものは何一つ続いていない。

とーさんなんか、小学生の娘をいきなり語学留学でアメリカに放り込むような人だからね。

おかげで、英語なんか話すもんか、アメリカ人大っ嫌いって偏屈な子どもが育っただけ。私が続いたのは自分で好きでやり始めた空手とダンスだけである。世のお父さん、お母さん、子どもへの押し付けはダメよ。

話が逸れたが、じーさんは長年の介護の果てに死んだ。晩年が大変すぎて、懐かしいとも思わない。介護を苦にした事件が起きると、常々胸が痛む。

ちなみに、じーさんは最晩年は私のことなんか覚えていなくて、外面そのままの好々爺であった。
「近所の書家の先生が厳しくて、硯投げるんですー」
「そりゃひどいですなあ」

お前だよ!

ってなじじいっぷり。

この程度、介護なんか人に任せてネタにすればいいのだ。罪悪感なんか持たなくていい。真面目にやったらあかんぜよ。

ところで、うちの旦那はこの話を聞いて、

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