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徒然なるままに(1)

 大学2年の時に、法学部のゼミを聴講(いわゆるモグり)したことがある。政治を専門としている教授だった。口コミはあとで知ったのだが、あの先生は判定が厳しく、避けておくべき先生だったそうだ。確かに、ゼミはこれまでの一般教養しか受けていない2年生には重量級だったな。

題材は「相模原事件から見る『自由』」これについて、いくつかの書籍を読み、レジュメを作成、グループ内で自分の解釈をプレゼンする。大枠は割愛するが、一番印象に残っていることがある。

「そもそも、ヒトが誰か別のヒトの存在を許可したり否定したり、その判断が本当にできるのだろうか/していいのだろうか」

そもそもの考えをしたことがなかった私は、その言葉を瞬時に咀嚼できなかった。考えるのはヒトだと思っていたし、自分は誰かに認められたいという承認欲求で動いていた側面もあるし、頭が混乱してしまった。

だが、その言葉の意味は自分の原動力をとやかくいうものではない、と今ならわかる。自分の存在を認めるのは、他の誰でもない自分なのだということとと同時に、他人の存在を決めるのもまた本人であり他の誰でもないのだ。この世に生を受けた時から誰もが等しく基本的人権を有し、胎児ですらそれは認められる。親子でさえもそれぞれに権利が与えられている。

道徳の時間に習う、私たちが生きていく上で基本的だけど最も重要で尊いこと。それを大学2年生の時にまじまじと叩きつけられたのだ。

相模原事件の被告は「障害を持つ人は生産性がない」、「税金の無駄だ」(要約)と述べていた。

・・・他人の存在を、私たちが決めていいのだろうか。あのゼミでは「自由」というものがどういうことなのかという明確な答えはなかったが、生きる/生きているということを誰からも干渉されず、否定されないこと、妨げられないこと、それこそが自由ということなのかもしれない、と私は考えている。

そこには優劣も順位も何もない。ただただ誰しもが「個」であること、その事実だけあればいい。存在を誰かに「認められる」必要もない。

理解することにすごく時間がかかったが、私は今、そのような考えが根底にあるといいな、そんな環境で生きたいと願っている。

物事には光と影があるが、『自由』ということだけは、光も影もない。自らが光源だ。誰しもが持っているものだ。この光源を遮るものは何人たりとも許されないと、それくらい強く信じたい。

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