嶽本野ばら『通り魔』

嶽本野ばらの『通り魔』を読んだ。

嶽本野ばらといえば、ロリィタ、細かい服の描写、乙女的思考が特徴的な作品を思い浮かべるだろう。

『通り魔』はそのような嶽本野ばら特有の世界観が壊されるような作品であった。結果的に服が関係している結末なのでそこは嶽本野ばららしいなと思った。

そもそも通り魔を読もうとして読んだわけではない。

先日図書館に行った際に、『ハピネス』を見つけたので読んでいたのだが、閉館時間になってしまい途中までしか読むことができなかった。私はそこに住んでいる人でもなければ周辺の大学に通っているわけでもないので借りることができず、後日改めて読みに行こうと考えていた(貧困大学生なので本を買うお金すらありません)。

1人の少年が描かれている表紙から、今まで読んできた嶽本野ばら作品とは異なっていることが伝わってきた。いつもなら手に取らないかもしれないが、なんとなく、何も考えず、私は手に取った。表紙の少年に、読んでと訴えかけられているようだった。

この世に溢れている、この日本に多く存在している、そんな少年の話であった。他人事ではない、私も一切の関係がないと言えないような、誰しもが関係する可能性のある恐ろしい物語である。

端的に説明してしまうと、コミュニケーション障害の少年が、ストーカー行為を経て、ネカフェ難民になり通り魔になるまでの変化を描いている。

少年は、ネカフェ難民やホームレスを見下し、自分は違う自分はあそこまで酷くないと否定していたのだが、いつの間にか流れるようにネカフェ難民になってしまった。私はこの、いつの間にか自分が見下していた存在になってしまうことに強く恐ろしさを感じた。対象がネカフェ難民やホームレスではなくても、自分は違う自分はああはならないと、人間はそれぞれなりたくない人物像が存在していると考えている。そのような人物に、いつの間にか、そうなることが当たり前だったかのように、まるで仕組まれていたかのように、とてもスムーズに堕ちていく姿は決して他人事ではなかった。

人と関わることが苦手ならば、どうするのが正解なのだろうか。人と関わらなくても生きていけるような社会にすることが正解なのか。人と関わることが苦手な人でも関われるように教育することが正解なのか。

少年は、成長する過程で十分なコミュニケーションを取らずに生きてきた。実の母とも意思疎通ができないほどである。

そんな少年は、職場の女性からの優しさを自分への恋愛感情だと勘違いしてしまいストーカー行為がやめられなくなってしまう。優しさを好意を向けられていると勘違いしてしまうほど、人に優しくされなかった人生は何を悪とすればいいのだろうか。

少年は自分が抱いている恋心の扱い方も間違えている。少年の実家、自分の部屋から意中の相手の部屋を覗けることに気づいてから、職場の寮に住んでいるにも関わらず、毎日実家に帰り意中の相手の部屋を覗いていた。これは、誰も好きになったことないから起こったことなのだろうか?なぜ、好きという美しい気持ちを自身の行動で汚してしまうのだろうか。人にしてはいけないこと、自分のしたいという欲求よりも相手がどう思うかを優先するということを学ばなかったから、好きな人の部屋を覗き見したいという欲求を優先して犯罪であると重く考えなかったのだろうか。

高圧的な相手に萎縮してより言葉が出なくなってしまう場面があった。社会にでると、高圧的な人間はたくさんいる。高圧的な態度はいい印象を与えないし、コミュニケーション障害でなくても萎縮して声が出なくなることがあるだろう。高圧的な大人に怯えてる少年は、自分と重なった。ああいう嫌な大人に出会うと、一体私が何をしたっていうんだと思うが、私たちは何もしていない。大人の情緒に振り回されているだけだ。来年社会人になるので、嫌な大人に会う機会がより増えることが恐ろしい。間違えた考えだとは思うが、高圧的な人間には高圧的な態度を取るしかないし、怯まないことが一つの解決策であるような気もする。

『通り魔』を読んでから、頭の中がずっとこの調子だ。この少年を救う方法、正解なんてないのかもしれないが、正解を探さなければ、この世への憎しみ、自分以外の幸せそうな他人への嫉妬から生まれる時間はなくならないだろう。

少年を救いたかったという偽善的な思いを抱いてしまっている自分が嫌になる。私にはどうすることもできない。それが事実だ。私は私のことで精一杯で、私が少年のようにならないために努力することが今できることのような気がする。少年がネカフェ難民にはならないあの人たちと自分は違うんだと言っていたように、私は少年のようにはならないあの人とは違うんだと、今はそう思うしかない。

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,091件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?