緩やかな挫折


大学院進学を控えていた3年前、思う所を書き連ねた。感染症の流行により、社会が大きく変化した時期だった。先行きが見えず、世間も私も右往左往していた。今読み返すと、あまりにも拙く青臭い文章だ。それでも、もがき悩む当時の私が鮮やかに書き表されている。
 さて、あの駄文に書かれたように、私は学芸員になれたのか。結論を言ってしまえば、なれなかった。春から、地元に帰り会社員として働いている。私は大きな不安と一片の希望を抱き大学院に入学したが、2年の歳月をかけて緩やかに挫折した。他責思考、諦念、雀の涙ほどの歴史学の知見と思考法を身に付け、クソにまみれた修士号を得て惨めに修了した。
ここで、多くを語るつもりはないけれど、大学院では人間関係において常にストレスを抱えていた。そして、私自身の研究が捗らないのも、大学院の人間関係のせいにしていつも愚痴を吐いていた。これが他責思考だ。人のせいにするのは本当に楽だし、愚痴を聞かされた人も慰めてくれる。これほどの快楽はめったにない。
 そもそも私には、研究のセンスがまるでなかった。センスという言葉で言い逃れようとする人間には、研究を続ける資格すらないのかもしれない。そもそも、生まれ持って研究の才覚をもった人なんてそういない。優秀な先輩方は、私には到底知覚し得なかった情熱に突き動かされ、寝る間を惜しんで学問に打ち込んでいた。だからこそ、優れた研究ができていたのだ。私は自分自身の未熟さを恥じるあまり、不貞腐れてばかりいた。しまいには人間関係が悪い、金がないなど御託を並べることにばかり精を出していた。それでいて、歴史学が嫌いになったと周囲に言いふらすから救いようがない。それでも、大学院を辞めることもなかった。私は生粋の根性なしではあるが、同時に情けないほどの臆病者である。自分で下した決断には、自分で責任を取るべきだという建前を豪語しながらも、中退して後ろ指をさされる勇気が最後まで持てなかった。惰性で修了したと言ってもいい。
 私は2年間何をしていたのだろうか、学費と時間に見合った成果は得られたのだろうか。会社の基本給が同期に比べて5000円高いだけか、大学院卒という中身が伴わない学歴か。何にせよ、2年間に失ったものと釣り合うとは到底思えない。実利にとらわれすぎだと叱咤激励してくれる人もいるかもしれない。それでも、あの2年間を消し去りたいという思いが拭えない。不幸中の幸いとも言うべきか、社会人となって理不尽な扱いを受けた時も、大学院よりはマシだと自分に言い聞かせてしまう。強力な痛み止めを得た気もするが、鈍麻になったと言うほうが正しい。就職したことで、社会に認められたように思える。大学院にはなじめなかったけど、大学院で出会った人と比べて、私はまともだ。本当に?まともがわからないくせに?
 緩やかに挫折した今、何を見据えて生きればいいのか。そんな青臭い念慮を胸に秘めて、毎日の労働を受け容れられるぐらいには私の神経は摩耗して、青春は終わりを告げたのだと思う。



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