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【論語と算盤】#2 そもそも「論語」って何?

†『論語』とソロバンは、はなはだ遠くて近いもの

「論語と算盤」の冒頭の読み進める入り口の見出しがこれである。

論語というのは、約2500年前のマネジメントの本である。小難しいことが書いてあるように思いますが、実は、現代で言う、ドラッカーの名言集や松下幸之助の金言集といったものでしょうか。一言で言うと、自分の年齢に応じたあるべき「人間の価値観」を定義したものと言えます。

仏教も同じです。人が生きていく上で迷った際に拠り所とするものでは同じです。そして仏教の方が深淵である。しかし、仏教と儒教の決定的な違いは、組織の中の人間関係を前提にしているかどうかということなのです。

論語(儒教)の場合には組織マネジメントを遂行する上で必要な人間の関係性を定義しているため、過去に中国や江戸幕府などでは官吏や武士の教育として採用されてきました。

私が論語ときちんと向き合ったのは、四十を過ぎてからからのことです。そのきっかけはトヨタの文化に触れたからですが、昔、読んだときには何を言っているのかさっぱりわからなかったのですが、改善を経験していくと書いてあることが少しづつ理解することができるようになってきたんです。

論語が難しい感じる理由が最近わかってきたのです。

論語というのは、子供から大人まで、道徳的に人の上に立つべき人が持つべき経験知を段階的に記しているんです。
経験知のリトマス試験紙のようなもので、小学校6年生であれば、論語の学而第一の一番初めにあるこの節は理解できていないといけないなどというものです。

「子し曰いわく、学まなびて時ときに之これを習ならう、亦また説よろこばしからずや。朋とも有あり、遠方えんぽうより来きたる、亦また楽たのしからずや。人ひと知しらずして慍いきどおらず、亦また君くん子しならずや。」

「ならってはおさらいするのは、たのしいことだね。なかまが遠くからくるのは、うれしいことだね。知られなくても平気なのは、りっぱな人じゃないか。」

この文章を読んで感想を述べてもらうと、点数を取るために学ぶのではなく人間が本来持っている知識欲だったり、成長したいという気持ちがあるかどうかが見えてくるのです。

例えば、政治家に求められる資質や経営トップの資質として適切な資質を持たれているかどうかも読んで共感できるどうかで見えてきます。

人格のリトマス試験紙みたいなものかもしれません。

娘が中学1年生のときに夏休みの宿題にプラスして、論語の「学而第一」を読んで感想文を出すということをLineを使ってやったんです。

当然、意味が理解できることとそうでないところがあるので、わからないところは「わからない」と返して良いよ。と言って。

この歳ではこの意味は、理解できなくて当然だし、解釈を間違えていたところはこういう意味なんだよ。というやりとりをしていたことを思い出します。

その後の彼女の学習態度はかなり変わり、成績もトップクラスに入りました。習慣が変わり規則的な生活が身につき、ほとんど本を読まないわりには国語は上位にいたのでこれも論語の成果かなと考えています。

論語というのものは、価値観や習慣に影響を与えることができる重要なものなのです。

ところが学校ではこれをやらないので家庭でやるしかないのです。

社会人教育のあり方も、コミニュケーション術とか発信力とか傾聴力とかありますが、人間にとって重要なのはスキル教育ではなく人間にしかできない思想・哲学の入り口を教えてあげることだと思うのです。

吉田松陰のように9歳で兵学師範(先生)になり、11歳で藩主の毛利敬親の前で講義をし絶賛されるほど人間の人格は成長させることができるんですね。

現代で言えば、社長に11歳の子供が経営戦略を述べるようなものかもしれません。

そうそう、学問という言葉の定義について知っておいて頂きたいのです。

学問とは、江戸時代までは人間学のことを中心に学問と呼んでいました。しかし、明治からは産業革命もあり、科学技術的なものを学問と呼ぶようになりここで言葉の定義が変わって行ったのです。なので、渋沢さんなどが指す学問とは人間学に近いニュアンスで使っています。

松下幸之助翁も若い人は古典に学びなさい。と言われたそうですが、経営やマネジメント、仕事をしていくうえで論語に書かれていることは最も重要な資質なのでしょうね。

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