父の話

僕もこの世に生を受けた存在でありますから、もちのろんで父と母が存在します。
今日はその片方、父の話をします。
身内の話を公でするのは少々気が引けますが、多分もう会う機会はなさそうなので大丈夫でしょう。
実際に会ったことのあるリアフレ諸君にはあまり読んでほしくない記事かな。


父は二十歳の僕の親世代にしては高齢で、母と20歳くらい年の差がありました。
ですが、土木関係の仕事をやっていたこともあり体は強くとても頼りになります。
土方っていうより設計のほうでしたが。

僕と父の関係はほかの家庭に比べて希薄です。
幼少期は、仕事でほとんど家にいませんでした。
週末になると毎週のように車でよくどこかに連れてってもらって、とてもかわいがられた記憶があります。
父親が甘くて母親が厳しい家庭でした。父が僕に怒ったところは人生で三回しか見たことありません。
そんな父が僕は大好きでした。

それでいて、僕が父のことについて知っていることはごく僅かでした。
両親と僕、母方の祖父母という母寄りの家庭だったし、週末くらいしか会う時間がないのに父はほとんど運転をしていたもんですから話す機会もそこまでありません。
3歳くらいのときに父の実家に連れられて、父方のおばあちゃんに会ったのを超おぼろげにですが覚えています。
父の年齢が年齢なのでとても高齢ですぐに亡くなっちゃいましたけどね。

僕が父に影響を受けた部分は二つあります。
それは味覚と野球。
父はコッテコテの関西人だったので、ソース文化だし阪神ファン。
この二点にいてはバチバチに影響を受けているなあと今感じるところですね。


そんな父との別れは結構早く訪れます。
僕が9歳の時に両親が離婚しました。
離婚の理由は当時から長い間にかけて知ることはなく、親が離婚すると必ず訪れる選択が迫られます。
それは親権の問題。
協議離婚だったので、父についていくか母についていくかを問われます。
正直小学三年生にはどっちにいくことが正解かなんて判断しようがありません。
小さい弟は必然的に母についていくし、母方のおばあちゃん子だったので母についていくことに。ベターな選択ですね。

父はだけが家に残り、母祖父母僕弟が引っ越す形になりました。
つっても、母が配慮してくれたので同じ小学校区内で転校はありませんし、父の住む元家も自転車で簡単に行ける距離。
一軒家は父一人で住むには広すぎますから、二階の部屋が僕と友達のたまり場と化して放課後に通うようになりました。
つっても父はずっと下で仕事していたので本当にただのたまり場にしていただけなんですけどね。

母という壁のなくなった父はいろいろなものを買い与えてくれました。
それこそ年齢的にも孫のできたおじいちゃんみたいな感じで。
誕生日にはゲーム機、当時ドハマりしていたベイブレードを大量に買ってもらったのは記憶に新しいです。
無事片親貧乏家庭となった僕にとっては超大事な収入源です。
ゲーム機スマホパソコンなど、僕の人生を彩った電子機器類はほとんど父に買ってもらったもの。
父がいなければ僕は高校生くらいまでずっとDSをいじくりまわしていたのかもしれません。

なんでかは忘れましたが父の家にあまり行かなくなった小学校高学年、気づけば父も引っ越して疎遠に。
誕生日近くにだけ会って、誕プレをもらうだけの人になってしまいました。
次の父と関わる機会は中学生、僕が不登校になった後でした。

この記事でも述べましたが、僕が不登校になった大きな理由の一つ家庭内権威者の不在。
これを母もよくわかっていたのでしょう。父と母の仲はインドとパキスタンくらい険悪でしたが、二年になっても学校にまともにいかない僕に痺れを切らして夏休み中父親の元へ出荷されました。
父は滅多に怒りませんがその分怒るとどれだけ恐ろしいかということを知っていたので丸一年ぶりくらいに勉強をする…ふりをして携帯でずっとアニメ見てたんですけど、夏休みの課題が終わるくらいにはやってました。
母の目論見大成功。

この時はまだ再婚していませんでしたが、義理の母となる女性と父は同居していました。
この際よくある義母との険悪な雰囲気なぞ一切なく、とっても良くしてもらいました。
血の繋がりもない中学不登校キモオタクの食事洗濯など身の回りの世話までもらうくらい。
また後でも一緒に生活する機会がありますが、その時を含めてもとても感謝しています。

夏休みを終え不登校が返還された結果、結局社会不適合がまた学校に行くことはなく再出荷に。
父の引っ越し先は中学の校区外でしたが、通えなくもない距離だったので父の元から自転車で通うことに。
本当はダメでしたが学校も許可を出してくれました。不登校児のこととなると学校はそれなりに融通が利くものです。
この父の元から通った中学2年生は死ぬほど充実してました。
クラスはいい奴らばっかだし新しく入った部活は楽しいしで良い思い出でです。
が、母が引っ越しをするのに伴って僕も戻り、学校も転校することに。
またしばらく父と会う機会はなくなりました。


時間は飛び僕は18歳、大学進学のための学費を稼ぎに泊まり込みで働いていた時。
4年ぶりに携帯に父から連絡が入ります。
どこからか事情を聞いたらしい父は、学費出してやるから俺の所に来て勉強せいとのこと。
僕からしたら願ったり叶ったりの申し出。

今すぐにでも飛びつこうとその話を母にすると、ストップがかかりました。
父の言うことは信用できないとのこと。ここで複数回にわたる父と母の協議が始まります。
協議といっても毎回言い争いに口喧嘩で話が全く進みませんでしたけれど。
この時は本当に最悪な気分でした。
極限労働とお先真っ暗の不安しかない未来でバチバチの躁鬱を抱えていた僕の鬱BEATは止まりません。
完全に縁が切れている父と母の接点はもう僕という息子しかないので、僕さえいなければ話したくもない二人が無理して話すこともないのにな…とずっと思っていました。本当にしんどかったです。

結局母が折れ、父の元での浪人生活が始まります。
現役受験はおろか現役という概念すら存在していなかったので浪人もクソもありませんでしたが。
この時にはもう父は再婚していて、僕父義母の三人暮らしです。
浪人していた一年間はまた記事にしますが、あれこれあってロクに勉強していなかったなりに今通っているFラン大学に受かりました。

入学するにあたって入学金と一年間の学費の納入が始まります。
が、父曰く「本当に受かるとは思ってなかった」らしく、足りないからと結局働いていた時のお金を全部渡すことになりました。
全額払うという話と違うじゃないかとは思いましたが、もともと全額払うはずだったお金だし、まるで勉強していなかったのは事実なのでこう思うのも無理はないだろうと快く承諾。
まとめて返すからと奨学金も借りることに。
このの頃から何かお金の動きが怪しいような気はしていましたが、大好きで尊敬する父のイメージが壊れるのが怖くて目を背け続けました。


そして大学一年目の夏、事件は起こります。
一年後期の学費の納入がまだ残っていて、期限の一週間前になってやっと払えないと結局母からお金を借りることに。
この際に、学費のために借りていて全額渡していた僕の奨学金が学費に充てられていなかったことが発覚します。
このことに母はブチギレ。まあ当然ですよね。
僕はしばらく受け入れられませんでしたが。

他にも目を背け続けてきた知らない事実がたくさん出てきました。
もともと父には借金があったこと。父が仕事を辞めて働かなくなったのが離婚の理由だということ。僕の母との離婚が二回目の離婚だったということ。
もっと早く教えてくれって話なんですけれど、僕にとってはたった一人の父親です。母もそれを配慮して言わなかった気持ちもわかります。

結局、僕の親父はダメ親父だったんですよね。
でも僕はこれがなぜか嬉しくて仕方がなかった。
いままでずっと尊敬して大好きだったお父さん。
僕とは違って勉強もできて仕事もできて、頼りになって…
幼少期からずっと父は遠い存在だったんです。
この人の息子なのに僕はどうしてこんなに何もできないダメ人間なんだろうと思って生きてきました。
でも蓋を開けてみれば、見栄を張るための虚言癖があるのも、一度線が切れると何もできなくなるのも、嫌なことを後に回すのも、全部僕と同じ。
ダメ人間であることに初めて、この人と血の繋がりがあるんだなということを感じたんです。
最初で最後の、遅すぎた父との距離が近づく瞬間でした。

結局後期以降の学費は僕の奨学金と母がなんとかしてくれることに。
父の元には置いておけないから家を出ろと、今のルームシェア生活に繋がります。
この際、母が学費を見る代わりに父と縁を切って今後一切会うなという条件が出されましたが、何とか間を取り持って交渉してそれは回避しました。この時もかなりメンタルがしんどかったです。
つっても家を出てから一回しか会ってないんですけどね。

最近義母から連絡があって、父がどこかへ失踪したと聞きました。
多分もうこの先会うことはないのでしょう。息子らしいことは何一つしてあげることはできませんでした。
かけがえのない肉親の一人として、大好きだった僕のお父さんとして、どこか幸せに過ごしていることを願っています。

オットセイに課金してもガチャは回せません。