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文豪と美術

今回は美術展に行った感想ではなく、少し趣向を変えて日本の文豪と美術との関係性のお話です。

日本近代文学を支えた文豪と画家、または絵画や彫刻といった美術品の関係は多いのですが、意外とまとまったweb記事や関連書籍がなかったため、あくまでも私が知っている範囲のみのお話になります。
専門家の記事ではないので、ふわっと読んでみてください(逆に良い資料があれば教えていただきたい……)

近代文学と美術

明治時代。文明開化によって、多方面にわたる欧米文化が日本に入ってきました。
多くの教養人、そして芸術家たちは、海の向こうの最先端を学ぼうと、輸入された洋書を読み(英訳すらされていないものは原文で)海外から講師を招き、時には留学をして貪欲に行動していったのです。
留学先では現地の芸術家はもちろん、同じ日本の文化人同士との交流もありました。

日本初の芸術家養成機関である東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部の前身)が出来たのもこの頃。ここから日本画・洋画の大家と呼ばれる現在でも名の知れた芸術家たちが多数輩出されていきました。
江戸時代以前は『日本画』という概念はなかったのですが、明治時代以降、日本で『洋画』が発展していく中で生まれた言葉です。

当時は文化人同士が交流する場所が限られていたこともありますが、びっくりするくらい関係が近いところもあり、「えっ、この人とこの人が繋がっていたのか!?」という発見もできて面白いです。

【川端康成】
文豪と画家の関係で真っ先に思いつき、且つ有名なのが、小説家・川端康成と日本画家・東山魁夷との交友。
東山が川端の美術コレクションが見たいと手紙を送ったこともあり、また二人の巨匠の交流は川端が東山の画集へ序文を寄せたり、川端の著作へ東山が挿絵や装丁を手がけるほど、深いものでした。
川端がノーベル賞を受賞した際には『北山初雪』を、文化勲章を受章した際には『冬の花』という作品を手がけて贈ります(『冬の花』は川端の小説『古都』の最終章タイトルであり、小説の口絵にも使われています)

また川端康成は古美術収集家としても名が知られていますが、まだ無名だった草間彌生の作品も買っていたようで、真贋を見抜くだけでなく、先見の明もあった方なんだなぁ。と思いました。

川端康成の美術コレクションは、今でもたびたび企画展で見ることができます。


【武者小路実篤】
小説家であり、画家でもあった武者小路実篤。自身の著作の表紙装丁にも数多く彼の作品が使われています。
40歳を越える頃に絵筆を取り、多くは植物や野菜をモチーフに、油絵・水彩画で活動していました。

武者小路実篤、志賀直哉たち上流階級の青年たちによって創刊された雑誌『白樺』は、文芸雑誌であり美術雑誌でもあったため、西洋美術の紹介にも積極的でした。
雑誌には毎号ルネッサンスから後期印象派まで、美術作品の図版を掲載し、数次にわたる美術展を開催するなどして力を入れていました。

白樺主催の展覧会には、あのオーギュスト・ロダンからも白樺派が所持していた浮世絵と交換に、直々に彫刻3点が送られてきたのだから、また凄い!(これが初めて日本に来たロダンでした)
さらに岸田劉生も白樺の展覧会で武者小路たちと縁が出来、雑誌の表紙装丁を担当しました。
武者小路はヨーロッパを旅行して各地の美術館を訪問し、『巴里絵画雑誌』『マチス、ルオー、ドラン、ピカソ訪問記』等を執筆しました。


【梶井基次郎】
梶井基次郎の短編小説には、もともと絵が好きなのか、本当によく西洋の画家の名前や丸善の画集コーナーでの描写が出てきます。

※『』は登場する著作名
ドミニク・アングル
『檸檬』
マックス・ペヒシュタイン『交尾』
レンブラント・ファン・レインジョン・コンスタブル『城のある町にて』
マックス・クリンガーポール・セザンヌカミーユ・ピサロマルク・シャガール『書簡 より』

画家名を見る限り、統一性はないですが、どちらかというとハッキリとした色合いの絵が好きだったのかな?という印象です。
自身でもデッサンもしていたようで「小説をかく苦心などよりもっと甘い楽しい苦心だ」と言って、描くのはもっぱら自画像でした。
(でも絵を見せる人は選んでた)


【島崎藤村】
詩人、小説家であった島崎藤村も美術愛好家であったようで、渡航先をフランスに決めたきっかけになりました。
パリに渡った際、下宿先を紹介したのが、小説家・有島武郎の弟であり、同じく小説家・里見弴の兄でもある画家の有島生馬でした。有島生馬は島崎の写生文『千曲川のスケッチ』の装丁も手がけ、若い頃からの友人でした。

さらにパリではまだ若き藤田嗣治とも会っています。ちなみに劇作家・小山内薫は藤田嗣治の従兄弟。
破天荒な藤田とはあまり相性が良くなかったようで、藤田が忘年会で激しいダンスを踊った際に島崎のすぐ近くにあったストーブの上に置いてあった薬缶をひっくり返してしまい、島崎は熱湯を被ってしまう事件が起こってしまいます。慌てて薬局に行って火傷の手当をしてもらい、アパートに戻ってみると、藤田は悪びれた様子もなくまだダンスを踊っていました(さすがにそこは怒っていい)

島崎の下宿先には若き画学生たちが集まり、カフェで語り合いましたが、実際には「藤村は大そう陰気で無口な、人づき合いのいい人ではなかったので、若い画家たちからは敬遠されていた」(『エトランゼ時代の島崎藤村』)と書かれていたので、決して気の合う友人というわけではなかったそう。
また島崎の二人の息子は、画家になっています。


細かいところを言うと、まだまだあるのですが、今回はここまで!
当時の本や雑誌の装丁は名のある画家が手がけていたり、さらっと口絵が描かれていることも多いので、美術館や文学館で当時の装丁を見る機会がありましたら、ぜひチェックしてみてくださいね!!



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