見出し画像

文豪と美術2

なかなか美術館や博物館に行けない日々が続いています。
このなんちゃって美術館お出かけコラムで書くネタもなく……なので、以前書いた文豪と美術の第二弾を書きました。

前回書き切れなかった有名文豪と美術との関わりを知ってもらって、少しでも話のネタにしていただければ幸いです。


【夏目漱石】
日本の近代文学を代表する夏目漱石。彼も美術に大きな関心をもっており、著作にもたびたび絵画について出てきます。
ロンドンに留学していたこともあってか、小説『三四郎』にはフランスの画家クルーズウォーターハウスの『人魚』が、『坊っちゃん』にもターナーが出てきます(どれもロンドンの美術館で観ることができます)
画家と交流も深く、『三四郎』に出てくる深見画伯のモデルは浅井忠、原口画伯のモデルは黒田清輝とも言われています。浅井忠は『吾輩は猫である』の挿絵も描いていました。

また夏目漱石は自分でも書画を描いており、装丁や挿絵も手がけていました。ただし評価は今ひとつのようですが……。


【森鴎外】
軍医であり、小説家であった森鴎外。実は明治40年に開設された文展で審査委員を務め、さらに帝国美術院では委員長に就任しておりました。
ドイツ留学中は洋画家原田直次郎と友人になり、小説『うたかたの記』の主人公のモデルになりました。

日本で初めて「美術解剖学」の講義をおこなったのも森鴎外。東京美術学校(現・東京芸術大学)を創立した岡倉天心は、ドイツから帰国したばかりの鴎外を招聘し、体系的な美術解剖学を取り入れていったのでした。


【正岡子規】
夏目漱石の友人であった正岡子規は、同じく洋画家の浅井忠中村不折とも交流がありました。洋画の基本ともいえる対象をありのままに表現する写生主義に影響を受け、それを俳句にも取り入れました。

「写生」という言葉は知っての通り、もともと明治以降デッサン、スケッチの訳語として使われるようになっていましたが、正岡子規によって短歌と俳句の「写生論」へと繋がっていきました。
正岡子規が描いたのは水彩画をメインに、モチーフは自画像、静物画、病床から眺めた植物などなど。
ただ自身は不器用だと言っていたみたいです。


【太宰治】
小説だけでなく、その破天荒な人生でも有名な太宰治。
彼は東京美術学校に進んでいた兄の影響からか、中学時代から美術に興味をもち、自ら同人誌の挿絵を手がけたり、自画像や風景画の油彩画も描いていました。作風は後述のモジリアーニやピカソに似た、やや大胆な色使いと表現。
太宰本人がモデルとも言われる『人間失格』の主人公、大庭葉蔵は作中で画家になるのが夢であり、さらに葉蔵がモジリアーニにインスピレーションを受けて描いた自画像を見た友人の竹一が、「偉い絵描きになる」と予言するシーンがあります。

直接的な交流はなかったものの、棟方志功は太宰治と同じ青森県出身ということもあってか、棟方志功は太宰の本の装丁を手がけ、また太宰は青森中学時代、まだ無名だった棟方志功の油彩画を購入していたことを随筆に書いています。


【三島由紀夫】
詩的で退廃的、エロティックで動的な作家、三島由紀夫。
川端康成に「一生に一度でいいからパルテノンを見たい」と言ったように、古代ギリシアに強い憧れをもっていました。

三島由紀夫が愛した絵画、グイド・レーニの『聖セバスチャンの殉職』。これはセバスチャンが頭上で両手を縛られ、三本の矢が刺さった作品ですが、なんと好きが高じて写真家・篠山紀信の撮影した、三島がセバスチャンに扮した写真もあります。写真は多少三島のナルシストが入ってそうですが、流石というか、芸術的!(人によってはグロいと感じてしまうかもしれないので、検索する際は注意してください)

まだ混乱の残る戦後すぐに世界旅行に出かけた三島は、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパ、そして念願のギリシャに渡り、様々な芸術に触れていきました。この見聞録は『アポロの杯』という随筆にまとめられています。
自身の邸宅の庭にもアポロ像を置いた三島。
そう考えると、彼の鍛えられた肉体美も作風も、ギリシア文化の影響があったのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?