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#38 プライドを捨て、誇りを持つ

 人は感情で生きている動物です。ゆえに、感情や感性で日々行動や判断がゆらぐものです。これを揺らがないようにするのが「徳」であると言われています。この「徳」は、善いと思ったことを、瞬時に行動に移すことで磨かれていきます。これを「徳を積む」と表現されています。

 瞬時に行動に移さなければ、そこに考える時間(タイムラグ)が発生するものです。すると、人間はとたんに善悪から損得へと判断(行動)の基準を移行させてしまい、そんなことを絶対しなくなるものです。「結果を考えて行動するのではなく、善を迅速に行動に移せるようになれ。」これが徳を積んだ結果得られる姿と言えます。
 これは「軽挙妄動」とは全くちがいます。「軽挙妄動」とは、善を突き詰めずに起こす、軽率な行動のことです。常に「善とは何か?」を突き詰め、そしてそれをすぐに行動に移せる訓練を積むことが肝要だと言われています。それを昔の人は「修行」と呼んでいました。

 例えば、目の前にペットボトルが落ちていたとします。あきらかに「ゴミ」だから拾えばいいわけです。まずここは善悪で判断できます。しかし、そこでぐずぐずしていると、次の概念が心に入り込んできます。「私が捨てたわけじゃない」ここで損得勘定が入ったことになります。この瞬間、人間は損なことはしなくなるものです。だから最初の「ゴミが落ちている」から「ゴミを拾う」という行動までにタイムラグを作ってはいけないのです。このタイムラグを限りなくゼロに近づけることが「徳を積む」ことになるというのです。
 よいと思ったことをスパッと行動に移す。ゴミが落ちていたら、何も考えずにパッと拾って捨てる。損得を考えず、当たり前のこととしてやることが大事なのではないでしょうか。
 

 こうした行動を積み上げていく人間には徳が積まれていきます。すると、何が生じるか?

 「自分に対する誇り」です。俗に言うプライドではありません。プライドという言葉は他者との勝敗、優劣によって作られる差別意識から発生するものです。だからプライドは簡単に他人に傷つけられてしまうものです。

 具体的には、
「○○の方が自分よりモテる・・・・」
「○○の方が収入が多い・・・・」
「○○の方が成績が上だ・・・・」
「○○の方が高級車に乗っている」
 なんと薄っぺらい価値観でしょうか。これらの価値観の奥底にあるのは「見栄」かもしれません。

 この価値観に支配されてしまうと、常に自分が他人より優れているところを見つけ出すことによってしか、自分を保てない状態になり、人生は苦しみに満ちたものになります。

 「プライドが傷ついた」とは言いますが、「誇りが傷ついた」という表現はあまり聞いたことがありません。なぜなら「誇り」は自分から発せられた、自分に対する高い評価のことだからです。だから、決して他人から傷つけられることはありません。自分が信念を持ち、正しいと思ってすることを他人がいくら揶揄しようとも、ぶれることなく「笑わせておけ」という心境でいられるのです。
 でも結局のところ、人生は「自分の信じた道を行くしかない」ということになります。その時、自分が持っているトラウマにその行動が阻まれることがあります。
 先ほどの例から、ゴミを拾おうとすると、「へえ、偉いんだね」とからかうような口調で言われることもあります。その場合とたんに手が止まってしまうものです。あるいは言われる前に「いい人ぶっていると思われないか」と考えてしまい、ゴミが落ちているのが気になって仕方がないのに見て見ぬふりをしてしまう、そんなことはないでしょうか。
 「あなたが拾わないのはそれでいい。でも、自分のフィールドを整備しているだけだから」と口に出さずとも心で答えて、黙々と行動して徳を積むことが大事です。
 俗に学校の先生はプライドが高いとか、お高くとまっているとよく世間で批判を受けることがありますが、自分の仕事に対してプライドではなく、誇りが持てるように日々努力していかなくてはいけないと思います。そのためには教師としての「徳を積むこと」だと思います。
 教師として徳を積むことは、目の前の子どもたちのために自らの信念で正しいと思う教育をすることです。誰かに言われたことを義務的に行っているだけでは教師としての誇りは生まれてきません。教師としての徳を積むことで、自分の仕事に対する自分なりの高い評価が生まれ、それは自分の心の中からこんこんと湧き上がる自分自身の誇りを形成することになると思います。それは単なる自己満足ではありません。それは自ら肌で手応えを感じながら、自分の言葉や行いに対して心の奥からわいてくる正直な感情だと思います。
 しかし、ここで間違ってはいけないのは、自らの信念をただ振りかざし、独善的になってはいけないことです。独善的というのは周りの人の意見を聞かずに自分勝手に振る舞うことです。いわばそれはアクセルばかりふかして肝心のブレーキを持っていないのと同じです。私たちは信念を持って正しいことをするのと独善的に振る舞うことの違いを明確に峻別していく必要があります。
 人間は社会的な動物であると言われています。このことは今後ネットワークがさらに進化したとしても普遍的な事実であると思います。社会には、その構成要素である人間一人一人をつなげるものが必ず存在します。一人一人がバラバラではそれは社会が成り立たないからです。ですから、社会にはお互いが共有するものが存在します。それは文化であったり、概念であったり、習慣であったり、その場の空気(感覚)であったりするものです。それは人が独善的になることを抑えるブレーキのようなものかも知れません。それを無視して自分を主張して独善的な振る舞いをするのでは、ブレーキの効かない車を運転しているようなことになりかねません。その人は単なる協調性のない「わがままで困った人」として周りの人に映り、敬遠されてしまいます。敬遠されると言うことは、一つの社会の中に受け入れてもらえなくなることであり、逆に本人の立場からとらえると、「その場にいずらい社会」になるのだと思います。車の運転をする時は、アクセルとブレーキを駆使して、ここはスピードを出せるところ、ここは減速して通るところ、時には一時停止して周りを見渡すところなどと峻別し、事故を起こさないように運転しています。またそのことを意識しているしていないにかかわらず、同じように絶妙なコントロールで社会生活をしているのが、一人前の社会人だと思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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