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歴史(his-story)

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歴史(his-story)から何を学ぶのか、歴史は繰り返されるのか、歴史にまつわる記事を載せていきます。
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記事一覧

#126 むごい教育

 今年の某放送局の大河ドラマは「どうする家康」ですが、その家康にまつわるエピソードを紹介します。  徳川家康は幼少時に人質として、近隣の戦国大名、今川家・織田家を転々としたことは有名です。徳川家康がまだ幼く、竹千代と呼ばれていたころの話です。駿河の国を治めていた今川義元は、政略的に竹千代(後の徳川家康)を人質に取りました。家康の資質を見抜いた義元は、教育担当の家来に対し、 「竹千代には、むごい教育をせよ」と一言だけ指示をしました。  しばらくたった後、義元は家来を呼び、

#125 日波友好秘話

 18世紀に消滅したポーランドは、100年に渡る独立運動と民衆蜂起にもかかわらず、ドイツやロシアから強い支配を受け続けていました。1919年、1世紀の時を経て、ポーランドが念願の独立を果たした時、シベリアには政治犯として捕らえられたり、戦乱を逃れて東へ向かった十数万人のポーランド人がいました。飢餓と疫病により多くの孤児が生じており、生活は限界に近づいていました。  同年9月、ウラジオストク在住のポーランド人たちが、シベリア鉄道で孤児たちをポーランドに送る救援計画を立てました

#124 日本の食糧自給率が低いことになっているカラクリ(小5社会)

「食料自給率37%の日本、世界の消費激増に耐えられるか」 これはある新聞の電子版記事の見出しです。このように「食料自給率37%」を「枕詞」として使って「食糧危機」や「飢餓」を連想させ、国民を煽っているニュースや記事があとを絶ちません。この「日本の食糧自給率が低い・37%」と政府もマスコミも言っていますが、はたして本当に日本の食糧事情の実態を正確に表したものなのでしょうか?国民である私たちも案外このフレーズをよく考えないで、鵜呑みにしてしまっていることはないでしょうか?  今

#97 日本・台湾友好秘話 八田與一物語

 みなさんの記憶にも残っている平成23年3月11日に東日本大震災が起こった時、台湾の人々は、日本赤十字社が把握しているだけで、200億円を超える義援金と400トン以上の支援物資を送ってくれました。これはもちろん世界一であると同時に、世界から寄せられた支援のおよそ3分の1を占めています。これだけでも驚きに値するのに、台湾の人々は、日本赤十字社を通さずにその何倍もの支援を送っていて、その合計は天文学的数字となり、もはや把握しきれないとさえ言われているほどです。  台湾の人口が日本

#88 「立花宗茂」ご存じですか?

・戦国時代不敗神話を誇った男(めちゃくちゃ強い) ・損得にとらわれない戦を貫いた男(ブレない) ・関ヶ原の西軍大名の中で唯一旧領を復帰できた戦国大名    戦国武将と言うと、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・・・などがメジャーな人物で誰もが思い浮かぶ存在です。みな有名な武将で、家来からは「軍神」のようにあがめられていましたが、彼らも実際は生身の人間でしたので、戦さに負けることはありました。常勝と言われた織田軍でさえ、勝率は七割ほどだと言われています。  けれど

#75 誰かがやったことなら、自分にもできる(物作り日本の原点)

 ペリーが浦賀に来航した1853年。日本中は大騒ぎになります。見たこともないような大きな船が来たのですから!日本の船とは比べ物になりません。「あんな黒船がやってきて、大砲ぶっ放したらどうなるんだ・・・」しかし、当時の日本人が黒船を見て「コワイ」と思ったことは現代人の私たちにも大体想像つくと思いますが、それだけではなかったのです。そこが私たち日本人の先祖の凄かったところです。  コワイ」だけでなく、『自分たちにもにもできる・・・』と思ったのです。異国人にできたのなら、私た

#72 ナイチンゲールが偉大なワケ

 ナイチンゲール、この人の名前は誰もが知っています。  クリミア戦争に従軍して、敵味方の分け隔てなく傷病兵を自分が引き連れてきた女性看護師らとともに手当てした「クリミアの天使」としてあまりにも有名な人ですが、彼女が「敵味方の分け隔てなく傷病兵を看護したこと」に勝るとも劣らない業績を数学者(統計学者)として残している事実はあまり知られていません。 看護と数学? いったいどういう関係があったのでしょう。  ナイチンゲールはロシアとオスマン帝国の間で起きたクリミア戦争に派遣さ

#67 4つめの奇跡 ヒグチヲスクエ!

 これまで樋口季一郎が起こした3つの奇跡を載せてきましたが。あったのです。もう一つの奇跡が。最後は樋口が起こしたというより、戦後にある人々が樋口のために起こした奇跡の話です。  3つめの奇跡の続き話ですので、まずこれまでの3つの奇跡をお読みください。  戦後、連合国が日本の戦争指導者を裁く極東軍事裁判が開かれました。占守島の戦いで樋口にその野望を潰されたスターリンは激怒していました。(3つめの奇跡を参照)そして終戦後、スターリンは米国に対して「戦争犯罪人」として樋口の身柄

#66 3つの奇跡を起こした日本人 3つめの奇跡(日本分断を阻止した終戦後の戦い)

 常識的に考えて、終戦の日と言われているのは1945年8月15日ですが、まだ戦闘は終わっていませんでした。北の戦線ではこれから戦いが始まろうとしていたのです。どういうことかというと、1945年(昭和20年)に入ると、戦局はますます悪化していました。4年前の1941年日本とソ連の間で結ばれた「日ソ中立条約」が有効だったので、日本はソ連を信用し、北の守りは手薄になっていました。しかし、ソ連の指導者スターリンは米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相とヤルタで会談(1945年

#65 3つの奇跡を起こした日本人 2つめの奇跡(犠牲者ゼロの撤退作戦)

 オトポール事件から4年後、1942年に樋口は札幌の北部軍司令官に赴任しました。すでに前年1941年12月太平洋戦争が開戦し、日本は熾烈な戦いを繰り広げていました。緒戦で破竹の勝利を続けた日本軍でしたが、1942年6月のミッドウエー海戦での大敗を境に戦況は暗転し、次第に悪化していきました。ミッドウエー作戦と並行して、日本は北の守りを固めるため、北米アラスカに連なるアリューシャン列島の西端に位置するアッツ島とキスカ島を占領していました。(下図参照)  北の最前線であるアッツ島

#64 もう一人の杉原千畝( 1つめの奇跡)

 シンドラーが救ったユダヤ人1200人  杉原が命のビザを発給したユダヤ人6000人  これは人類史に残る偉業です。しかし、この他にもいたのです。ユダヤ人を救った日本人が。それも20000人。(諸説あり)その人の名は樋口季一郎陸軍中将。今回はこの樋口中将が起こした3つの奇跡の話をしたいと思います。  恥ずかしい話ですが、私は昔の軍人なんてほぼみんな軍国主義の塊のような粗暴な人々で、多くの罪のない日本人兵士を戦場で突撃させて無駄死にさせた無為無策の精神主義の輩だとばかり思

#63 杉原千畝の仲間たち

 1940年、ナチスドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救済した在リトアニア領事であった杉原千畝の「6000人の命のビザ」の話は有名です。彼のことを「日本のシンドラー」とか「東洋のシンドラー」などと呼ばれていますが、私は逆だと思います。「シンドラーのリスト」で有名なチェコの実業家だったオスカー・シンドラーが素晴らしい人道主義者であることはまちがいありませんが、当時のユダヤ人を救った人数(シンドラーは1200人)といい、その立場や状況といい、杉原はシンドラーをはるかに凌

#62 小笠原を守ったサムライたち

 1 現代における小笠原諸島の重要性 まず小笠原諸島について説明します。小笠原諸島は、東京から南へ約1000km離れた広大な海域に浮かぶ30ほどの島から成り立っています。明治13年以来東京都に属しています。この小笠原諸島で民間人の住んでいる島は父島と母島だけです。ともに千代田区の約2倍の大きさの島です。1年中暖かな亜熱帯気候で、透明な海と独自の生態系を持つ動植物に溢れています。「人類共通の貴重な財産」として2011年世界自然遺産に登録されました。  この小笠原諸島が日本の領

#42 人生を二度生きた男 伊能忠敬

伊藤忠敬とは、① 大ききんの際、売り物の米を惜しげもなく人々に分け与えた人物② 一生涯少年の心を持った夢見るスーパー老人③ 外国の侵略から日本を守った男そして、日本地図はついでに作ったもの、その真の目的は?第一の人生  伊能忠敬という名前を千葉県では知らない子どもはいません。なぜなら社会科や道徳で扱われる人物だからです。忠敬と言えば、日本で初めての実測地図を作った人ということは、6年の社会科の教科書に載っています。では、忠敬が日本地図を作るために旅を始めたのはいったい何歳だっ