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#64 もう一人の杉原千畝( 1つめの奇跡)


 シンドラーが救ったユダヤ人1200人

 杉原が命のビザを発給したユダヤ人6000人

 これは人類史に残る偉業です。しかし、この他にもいたのです。ユダヤ人を救った日本人が。それも20000人。(諸説あり)その人の名は樋口季一郎陸軍中将。今回はこの樋口中将が起こした3つの奇跡の話をしたいと思います。

 恥ずかしい話ですが、私は昔の軍人なんてほぼみんな軍国主義の塊のような粗暴な人々で、多くの罪のない日本人兵士を戦場で突撃させて無駄死にさせた無為無策の精神主義の輩だとばかり思っていました。特に陸軍なんてのはその際足るもので鉄拳制裁で暴力主義が横行していたものとばかり思っていました。

 しかし、今回調べてみて、軍人の中にもこのような素晴らしい人物がいたのかとあらためて自分の勉強不足を痛感した次第です。

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 樋口季一郎は1888年(明治21年)兵庫県淡路島に生まれました。幼少から成績優秀で、エリート将校養成校である大阪陸軍地方幼年学校に入学し、その後東京の陸軍中央幼年学校に移り、1907年第一師団歩兵第一連隊に配属されました。配属後も勉強熱心だった樋口は陸軍士官学校、陸軍大学校へと進み、優秀な成績で卒業しています。当時日本の仮想敵国だったロシアを研究し、陸軍きってのロシア通と言われました。大学校卒業後は、ロシアやポーランドなどの駐在武官を歴任しています。そして、1935年、満州国に駐留する関東軍に派遣され、49歳でハルピン特務機関長に就任しました。特務機関とは今で言う諜報(スパイ)活動を担う重要な部署です。

 樋口は着任してすぐ、部下に次のように訓示しました。

「満州国は日本の属国ではない。したがって、余計な干渉は避け、満人の庇護に務めよ」

「悪徳な日本人はびしびし摘発せよ」

 樋口は正義の人でした。1937年12月の吹雪の夜のことでした。1人の人物が樋口を訪ねてきました。ハルピンユダヤ協会会長を務め、医師でもあるカウマン氏でした。アジア地域におけるユダヤ人のリーダーです。カウマン氏は言いました。

「ジェネラルヒグチ、ナチスドイツのユダヤ人迫害は激しくなるばかりです。この非道を世界に訴えるため、このハルピンで『極東ユダヤ人大会』を開催したいのです。ぜひ、許可していただきたい。」

 実は前年の1936年、日本は「日独伊防共協定」をドイツと調印していました。友好関係にあるドイツの政策に反する行動は、ドイツ政府を刺激するのではないかとの懸念がありました。しかし、かつてドイツに駐在した経験を持つ樋口は、ヨーロッパでユダヤ人がいかに悲惨な状態に置かれているかよく知っており、これに深く同情していたのです。

 樋口は即決しました。

「それは素晴らしい。協力しましょう。」

 こうして翌1938年1月15日、関東軍の認可の下で極東ユダヤ人大会が開催されました。地元だけでなく、東京や上海、香港などから集まった2000人ものユダヤ人で会場は満杯です。来賓に招かれた樋口は大会の締めくくりの演説を依頼されていました。そこで、樋口は驚くべき演説をしたのです、

「諸君。ユダヤ人は、お気の毒にも世界のいずれかの場所においても『祖国』を持たぬ。ある一国は好ましからぬ分子として、同胞であるべき人々を追放するという。追放せんとするならば、その行き先をあらかじめ準備すべきである。当然の処置をしないで追放することは、虐殺に等しい。私は個人として心からこのような行為を憎む。ユダヤ追放の前に、彼らに土地すなわち祖国を与えよ!」

 個々で指摘された「ある国」とはまぎれもなくドイツのことでした。演説終了と同時にものすごい歓声が上がり、樋口に握手を求め、ひざまずいて号泣する人々が続出しました。閉会すると各国の新聞記者が樋口を取り囲み、「ジェネラルの演説は、日独の友好に水を差すような内容です。それをわかっていながら、なぜあのような演説をしたのですか。」と質問してきました。

 樋口は微笑みながら答えました。「日独関係はあくまでコミンテルン(国際共産党)との戦いであって、ユダヤ問題とは切り離して考えるべきだ。祖国のないユダヤ民族に同情的であると言うことは、日本古来の精神である。日本人は昔から、義をもって弱きを助ける気質を持っている。ユダヤ人を迫害することを容認することはできない。

 樋口はまさに日本の武士道を体現した軍人でした。この樋口の発言は全世界に報道され、ある種のショックを伴う大反響を巻き起こしました。すぐにドイツ政府から外務省に抗議が来ました。関東軍参謀本部は「厳重注意する」と返答して矛を収めさせました。日独の連携が進む中、親独派の軍人たちから「日独関係を悪化させる言動は許されない」との批判が起こりました。しかし、樋口は一向に信念を曲げるつもりはありませんでした。

 実を言うと、陸軍中央は「極東ユダヤ人大会」に先立って、ユダヤ研究の専門家・安江仙弘(のりひろ)大佐を樋口の下に派遣していました。安江は早々に満州のユダヤ人の保護活動を開始しています。

「我が国は八紘一宇を国是としており、ユダヤ民族に対してもこれを例外とすべきではない。『窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず』という。ましてや彼らは人間ではないか。」これは安江の言葉です。

 同時に安江はユダヤ難民を保護する方針を打ち出した『現下における対猶太(ユダヤ)民族施策要領』をまとめ、これを関東軍の方針として発表させたのでした。ということは、陸軍中央も関東軍も人種平等の立場でユダヤ問題に対処していくことにしたのです。そしてこの要領が1939年12月の五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で決定された『猶太(ユダヤ)人対策要綱』に結実するのでした。

 1つめの奇跡 オトポール事件

 杉原千畝がリトアニアで命のビザを発給する2年前の話です。1938年1月の樋口のユダヤ人擁護発言からおよそ2ヶ月後、春まだ遠い3月の寒い日、樋口のところへ深刻な情報が飛び込んできました。満州国と国境を接するソ連のオトポール駅で、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人難民が、満州国に入国できずに立ち往生しているというのです。

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 シベリア鉄道を横断したユダヤ難民の行程には2種類ありました。1つはシベリア鉄道をウラジオストックまで行って、そこから船で日本へ渡るルートと、シベリア鉄道をオトポール駅で下車して、満州国へ入り満鉄を南下して上海へ逃れるルートです。この時のユダヤ人一団は、満州を通過して、当時唯一ユダヤ人をビザなしで受け入れていた上海に向かい、その後アメリカやイスラエルなどに逃れることを希望していました。しかし、この満州でも他の諸国と同様、入国拒否にあったのでした。

 シベリア鉄道のオトポール駅で吹雪の中、野宿同然の状況に置かれているユダヤ人の数は20000人だったと言われています。この地域の気温は3月でもマイナス30度。飢えと寒さで凍死者が出始めていました。事態は一刻の猶予もありませんでした。なぜ満州国はユダヤ人を入国させなかったのでしょうか。まず、ユダヤ難民たちは満州国への入国ビザを持っていませんでした。(今でもビザなしで入国できる国はほとんどありません。)また、満州国は日本と親密な関係があったので、その日本の友好国であるドイツを怒らせたら、日本からもにらまれてしまい、満州国の立場も悪くなってしまうと考え、満州国政府は入国を拒否したのでした。

 「これは大変なことになった。」と思案する樋口のもとへ、ユダヤ人のリーダーのカウマン氏が救援の依頼をするために訪ねてきました。「ジェネラルヒグチ、助けてください。」このまま何もしなければ、ユダヤ難民はみな凍死してしまいます。しかし、もし助ければ樋口は再びドイツの政策に逆らうことになり、場合によっては職を辞さなくてはならなくなるかもしれませんでした。

 しばらく瞑目した樋口の頭の中に、ポーランド駐在武官時代に経験したある出来事が甦ってきたといいます。それはおよそ10年前、グルジアのある村で出会った貧しいユダヤの老人が、樋口に涙ながら訴えてきた次のような不思議な話です。

 「君は日本人か。私たちユダヤ人は世界で一番不幸な民族なんだ。どこに行ってもいじめられ、冷たい仕打ちを受けてきた。ただ一生懸命、神に祈るしかないのだ。そうすれば必ずメシア(救世主)が助けてくれる。メシアは東方から来るんだ。日本は東の国だろう。日本の天皇こそ、そのメシアなのだと思う。そして君たち日本人もメシアだ。我々ユダヤ人が困窮しているときに、いつか、どこかできっと助けてくれるに違いない。」

 樋口は決断しました。「ユダヤ難民を助けましょう。私が引き受けます。」これを聞いたカウマン氏は声を上げて泣きました。樋口は即座に南満州鉄道の松岡洋右総裁(後の外務大臣)へ電話で特別列車の運行を要請し、松岡はこれを快諾しました。

 ソ連のオトポール駅から満州の国境までは数百メートルしかありませんが、ユダヤ難民の多くは満足に歩けない状態でした。国境線上に満鉄の日本人職員たちが待ち構えていて「頑張れ。もう一息だ。」と叫んでいました。国境侵犯になってしまうので、これ以上前には進めなかったのです。職員は歩けないユダヤ人を背負って列車まで連れて行きました。この特別列車は13本運行され、全てのユダヤ人が救出されたのでした。

 2日後、特別列車の第一陣がハルピン駅に到着しました。やせたヒゲだらけの顔が列車の窓に並んでいるのを見て、出迎えの人々からどよめきの声が上がります。病人や凍傷で歩けなくなった人たちが次々とタンカで運び出されました。ホームのあちこちで肩を抱き合い、泣き崩れるユダヤ人たち。やつれた幼児たちもミルクの入ったビンを見ると、泣き出しました。

 凍死者は十数名出たものの、病人の十数名を除いた全員が無事でした。救援があと1日遅れていたら、この程度の犠牲ではすまなかったと医師たちは言っていました。助かったユダヤ人たちは日本やアメリカに渡り、残りの人たちはこのハルピンの開拓農民として生活していくことになりました。

 オトポール事件の2週間後、恐れていたことが起こりました。ドイツ政府から抗議文が外務省に送られてきたのです。関東軍司令部は樋口を呼び出しました。その時の上官があの東条英機参謀長(後の内閣総理大臣)だったのです。東条は「あなたの言い分を聞かせてもらおう」と迫りました。

 樋口は東条に次のように答えています。「はじめにはっきり申しあげておきます。私の取った行動は間違っていないと信じています。ドイツは同盟国ですが、そのやり方がユダヤ人を死に追いやるものであるならば、それは人道上の敵です。人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいきません。私は日本とドイツの友好を希望します。しかし、日本はドイツの属国にあらず!言いなりになってはいけません。また、満州国も日本の属国ではないと信じているので、私は満州国代表部に忠告したのです。

 樋口は東条の顔を正面から見据えて言いました。「東条参謀長!ヒトラーのお先棒担いで、弱いものいじめをすることを、正しいとお思いになりますか。

 東条は天を仰ぎ言いました。「樋口君、よくわかった。ちゃんと筋が通っている。私からもこの問題は不問に付すように伝えておこう。」この後、東条は中央に「日本はドイツの属国ではない。樋口の処置にまちがいはない。」と回答しました。こうして日本政府はドイツの抗議を「当然なる人道上の配慮によって行なったものだ」と一蹴したのです。

 その後もユダヤ難民は続々と満州に押し寄せました。満鉄の松岡総裁は、乗車賃は無料とし、その後までそれを踏襲したと言われています。この2年後、杉原千畝はこのオトポール駅から満州へ入国できると言った既成事実があったからこそ、あの命のビザをユダヤ人のために発行し続けたのかもしれません。

 樋口が助けたユダヤ人の人数には、諸説があります。二万人から数千人とかなり開きがあるのです。このオトポール事件自体が軍の機密事項扱だったため、その人数は公表されていないため、未だに正確にはわからないのです。いずれにしても世界中で差別されていたユダヤ人を大量に救出した事実はゆるぎないものがあります。列強が植民地を争って支配していた時代です。ある意味で人種差別は当たり前のご時世でした。そのような時代背景の中でも、人種平等の精神で多くのユダヤ人を救ったのは、唯一日本だけであり、樋口の行為も、当時の日本政府の方針も奇跡に等しい事実です。

 戦後の日本のマスコミや教育界ではこのような当時の優れた日本国政府の方針や人道の人をまともに扱っておらず、未だに日の目を見ることがあまりありません。教科書にも載っていません。なぜなのでしょう。それは戦後の日本には、戦前の日本政府のしたことをよく評価したり、軍人を誉めるようなことをタブー視してきた風潮があるからです。とても残念でなりません。杉原千畝の行為も「一人の領事がした個人の善意」と解釈されがちで、当時の日本の国是が「人種平等」であり、国の方針にしたがって、命のビザを書いていたことは全く伝えられていないのです。(もちろん、杉原個人が素晴らしい人間であることは間違いないことですが) 2つめの奇跡に続く

参考文献:「陸軍中将 樋口季一郎の遺訓ー」「陸軍中将・樋口季一郎回想録とユダヤ難民を救った男」「感動の日本史」

最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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