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#63 杉原千畝の仲間たち

 1940年、ナチスドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救済した在リトアニア領事であった杉原千畝の「6000人の命のビザ」の話は有名です。彼のことを「日本のシンドラー」とか「東洋のシンドラー」などと呼ばれていますが、私は逆だと思います。「シンドラーのリスト」で有名なチェコの実業家だったオスカー・シンドラーが素晴らしい人道主義者であることはまちがいありませんが、当時のユダヤ人を救った人数(シンドラーは1200人)といい、その立場や状況といい、杉原はシンドラーをはるかに凌駕しているといえます。ですから、シンドラーの方を「チェコの千畝」や「ドイツの千畝」と呼ぶ方がふさわしいと思っています。

 また大勢のユダヤ人を救った日本人は杉原千畝だけではなかったことをみなさんはご存じでしょうか。

 今は映画にもなった「命のビザ」の話は、千畝のリトアニアという一国に駐在した領事としての個人的裁量でなしえたことではありません。そこには当時の日本の方針に立脚した背景があったと言われています。その裏付けとなることとして、千畝が命のビザを発給したのと同じ時期に、モスクワやウィーン、プラハ、ストックホルムなど12以上の在外の日本領事館で、何百通もユダヤ難民のためのビザが発給されていたことは、あまり知られていません。

 これらの領事館がユダヤ難民を救済した根拠になったのが、1939年12月の五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で決定された「猶太(ユダヤ)人対策要綱」でした。(ちなみに日独伊三国軍事同盟締結は1040年9月)この要綱には、ヨーロッパで進行中だったユダヤ人差別は、日本が1919年の国際連盟発足から主張してきた「人種平等の精神」に反するとして、「ドイツのように排斥しない」「他国人と同様、公正に取り扱う」ことが明記されていました。当時の日本の国是であった「八紘一宇(はっこういちう)」(世界は一つの家という意味の神武天皇の言葉、英語では、unversal brotherhood)の精神に則って、あくまでもユダヤ人を平等に扱うべし、という国家方針を定めていたのです。

 したがって、この要綱が出された翌年に千畝が大量のビザを発給したことは、ユダヤ人を差別しないという国家方針にしたがったまでのことで何ら問題になることではなかったのです。実際におびただしい数のユダヤ人が日本に入国を果たしていたというまぎれもない事実がそれを物語っています。もし、日本政府がドイツの圧力でユダヤ人を排除するつもりで、ビザの発給が千畝の単なるスタンドプレーだったとしたら、日本国政府は日本の港やいたるところでユダヤ人を摘発し、入国を拒否して強制送還すことがいくらでもできたはずですから。

ユダヤ人の行程

 杉原が命のビザを発給した後も無数の素晴らしい日本人によってユダヤ難民たちの命はつながれていきました。杉原の発給したビザのおかげでシベリア横断鉄道に乗って当時のソ連を横断した大量のユダヤ難民たちは、終点駅のウラジオストックで駐在総領事代表だった根井三郎(宮崎市出身)の仲介で当時のジャパンツーリストビューロ(現在のJTB)の高久甚之介(伊賀市出身)や大迫辰雄(千葉市出身)らへ引き継がれました。根井はビザを紛失してしまったユダヤ青年のために、極寒の中ソリで走り回って探したこともあったと述懐しています。また入国手続き費用のないユダヤ人のために、JTB社員が満州まで大金を運んだ記録も残っているそうです。

 ウラジオストックからは福井県の敦賀に向かいました。難民を運んだ船は週一回運航されていた日本郵船の天草丸でした。大迫はこの天草丸のアシスタントパーサーでした。当時世界各地で事業を展開していた日本郵船やJTBにとってユダヤ難民に便宜を図ることは、ドイツににらまれる恐れのあるハイリスクなことだったと思います。しかし、人道主義の立場から彼らは勇気を奮って難民を敦賀へ何度も輸送したのです。

 到着した敦賀市の当時の市民らは、ボロボロでやつれた姿で上陸したかわいそうな難民に対して、皆一様に優しく受け入れたそうです。大勢の市民が食べ物を無償で配ったそうです。また難民たちはみな垢だらけで臭かったので、町の銭湯は1日休業して、彼らを無料で入浴させたと言います。浴場があまりにも汚れてしまい、後の掃除が大変だったそうです。後日無事安住の地に到着したユダヤ人が「ツルガは天国のようで、本当に幸せだった」と述懐しています。下の動画は根井三郎がウラジオストックでユダヤ人のために発給したビザの現物が発見されたというNHKニュースの動画です。

 2つめは天草丸のアシスタントパーサーだった大迫を顕彰したJTBの動画です。

 その後は、著名なユダヤ人学者・小辻節三博士が東奔西走して、難民たちの行く先を手配しました。この小辻の献身的な努力によって難民たちは敦賀から神戸、横浜に国内を移動してそこからアメリカやオーストラリア、上海などに渡っていったのです。この時も日本郵船が船を調達しています。今でもこの小辻の無償の厚意に感謝しているユダヤ人が数多くいると言われています。

 さかのぼること1919年、日本は国際連盟の発足に当たり、人類史上世界で初めて、しかも唯一「人種差別の廃止」を提案した国でした。「八紘一宇」の精神に基づき各国各民族は平等に扱われるべきだと主張しました。残念ながら、日本の主張は欧米列強の反対で受け入れられませんでしたが、弱肉強食の帝国主義の嵐がふきすさぶ当時の国際情勢の中で、命がけで人命を救った日本人が数多くいたことを同じ日本人として忘れてはいけないと思います。そしてその行動を支えていたのが当時の列強の利害にとらわれない日本の素晴らしい方針であったことに日本人として誇りを感ぜずにはいられません。下の動画は当時の国際連盟で日本が人種差別撤廃を主張した事実を伝える動画です。(「その時歴史が動いた」から)

 

 もし、千畝の発給したビザをもってはるばるウラジオストックにたどり着いたユダヤ難民に対してウラジオストック総領事代表だった根井が日本への通関を許可しなかったら、

 またもし、大迫らジャパンツーリストビューロや日本郵船の人々がウラジオストックから敦賀行きの船の便宜を図らなかったら、

 さらにもし敦賀にたどり着いたユダヤ難民を敦賀市民が快く思わなかったとしたら、

 またさらにもし日本から安住の地へ無償で手配した小辻博士がいなかったら、

 杉原が命がけで発給したビザが無駄になっていたのかもしれません。この奇跡とも言える多くの日本人がつないだ文字通り命のバトンがつながれてなしえた快挙だったのです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 

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