見出し画像

「人という字は人と人とが支え合っている」という文言に潜む差別構造

誰かを支えられない人間は人じゃないとでも言うのか

例えば重度障害者で「誰かに支えてもらうことしか出来ない人間」は人じゃないとでも言うのか

あえて疑問形を使うまでもあるまい。「人という字は人と人とが支え合っている」という言葉が発せられるとき、健常者様の脳内では障害者は他人に支えてもらうことしか出来ず、自分で他人を支えることが出来ないから人ではないという差別の意識が芽生えているのである

これは純然たる事実である。健常者様はあまりにも自然にこのように思考してしまうため、自身の思考の背後に潜むこの差別構造を永久に自覚できないのである

他人を支えることが出来ないからという部分はすなわち経済性、生産性の話に置き換えられる。「人という字は人と人とが支え合っている」というとき、その背後には生産性の低い、職場のアホ上司もただ単に何らかの事情で生活保護になっただけの人物も全員経済的にはただのコストであるという理由から人ではないと主張しているのである

繰り返すがこれは事実である。「人という字は人と人とが支え合っている」という表現の文意は協調であるが、実はこの協調なる概念自体が健常者様の言葉であり、例えば「障害者は健常者に協調してもらうために障害を克服する努力をしよう」のような使い方がされる概念なのである

言いたいことが分かるだろうか。「人という字は人と人とが支え合っている」とか言いながら健常者様は障害者に協調するべく差別を辞める努力など決してしていないのである。片脚切断の人間を再度歩けるように治療する努力を健常者様はするがその一方で一切歩けなくても何不自由なく生活できるような社会を健常者様は決して作ろうとしないのである。「協調」や「努力」という言葉は健常者様と障害者との関係性において極めて一方向的に使われているのである

このように見えない形での差別はこの世に非常に多いのである

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?