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文化祭の科学部の展示を見て、涙が出た話。

先日、夫の高校の文化祭を見に行きました。

「ちょっと行ってみようかな」くらいの軽い気持ちだったのですが、まさか。
泣くことになるなんて思わなかった。

しかも、「科学部の展示」という、涙要素がなさそうな場面で・・・。


そもそも、なぜ夫の高校の文化祭に行くことになったかというと、彼が38歳にもなって毎年文化祭に顔を出すのが恒例になっていたから。

普通、30代になると、学生時代なんて前世の記憶だっけ?ってくらい縁遠くなるもの。
文化祭に参加するにしたって、せいぜい出身大学に行くかどうかじゃないだろうか・・・。

そんなメインストリームに逆行して、うちの夫がいまだに高校の文化祭に通い続けるのは、彼が「高校の生徒会長」だったからです。

なんでも、ものすごく熱血の生徒会だったらしく(私には「熱血の生徒会」がどんなものかよくわからないけど)。
思い入れもひとしお、なんだそう

そんな文化祭もコロナ禍で中止を余儀なくされており、今年数年ぶりに開催されることに。
私は夫と結婚したのがコロナ騒動の直前だったこともあり、一度も行ったとがなかったので、付いて行ってみることにしました。


夫の出身高校は中高一貫校で、文化祭も合同。
なので、下は13歳・上は18歳がひしめきあう空間です。

子供時代の幼さが残るちょっとモッサリ感のある中学生と、バッチリ化粧に短いスカートをひるがえす背伸び盛りの高校生が、わさわさと行き交う。

中高時代の良い思い出が少ない私としては、若干、居た堪れない気持ちになりながらも校舎を進みました。

なんなんだろうか。
10代特有の、あの甘酸っぱさやら、痛みやらが胸を突く感じは・・・。


そして、いくつか空いている教室にちょこちょこ出入り。
喫茶をしているクラスでジュースを買ったり、美術部や鉄道研究部など展示をしている部活の部屋に入ったり・・・。

そこで、たまたま入ったのが、科学部の展示室。

科学部の学生が作ったペットボトルロケットの映像とか、摩擦を利用して遊ぶ(?)テーブルホッケーとか、生徒の作品がいくつか配置してありました。


その中で、私の目を引いたのは、教室の隅にあったクレーンゲーム。

これももちろん、明らかに生徒の手作り。
私の身長はゆうに超える大きさで、本物と同じくらいのフォルムではあるのだけど、見てくれはガタガタ。
配線も丸見えです。


だけど、ちゃーんと動いているのです。

クレーンゲームを子供が数人囲んで遊んでいたのですが、ぎこちない動きながらもちゃんとクレーンが動き、下にいっぱい積まれていたガチャガチャのカプセルを、危なげながらも掴んで引き上げていました。

それを見て、「すごーい!」と声をあげる、私たち夫婦と子供たち。


そして、歓声を上げるオーディエンスの脇で、ちょっと恥ずかしそうに微笑んでいる科学部員。


その、はにかんだ笑顔を見たとき。

私の中に、ふわっと温かい気持ちが広がった。


私は彼を見て、「美しいな」と思ったんです。

それは、「自分の好きなものを表現する」ということの美しさ。

さらに、その「好き」を表現することによって、「人を喜ばせている」という、豊かな循環がそこにはあった。


それを生み出している彼が、「神々しい」とさえ思えたんです。


この日は、とても天気の良い晴れた日だったから、もしかして窓から差し込む日差しの効果もあったのかもしれない。
でも、私には確かに、彼が神様のようにきらきらして見えた。



人が、好きなものに打ち込むエネルギーって、「ものすごく美しい」といつも思います。

誰かからの評価とか、それがなんの役に立つとか、そういうのを全く気にしていない。
ただ、「好き」というだけの、愛と真っ直ぐさに溢れた、純粋なエネルギー。

そして、そのエネルギーは、周囲さえも明るく照らすことができる。

たとえば、料理人の顔が見えるレストランに行ったとしましょう。
その料理人が本当に楽しそうに料理をしていたら、なんだかそれだけで幸せな気持ちになるし、出てくる料理も美味しく感じるじゃないですか。

そんなふうに、良いエネルギーって、モノや空気に宿るものだと思うんです。

人間っていうのは、きっと、そうやって「好き」を放出して、誰かにそれを還元するために生きてる。
それこそが、「生きている喜び」なんじゃないかと思うんです。


でも、大人になると、純粋な「好き」を忘れてしまう。
評価とか、役に立つとか、そういうことばかりに頭が働くようになってしまって。

そして、そうしているうちに、なんのために生きているのか?すらもわからなくなってしまう。


もれなく、私もそうだった。
今は、会社員を辞めて、「自分の望む生き方をする」ということには人より敏感になって日々を過ごしているつもりだけど、それでもまだまだ。

気を抜くと、私の心の奥底の光は、濁ってしまいそうになる。


でもきっと、人間の正しい姿は、その心の中の輝きを、純粋な「好き」というエネルギーを注ぎ続けることなんだと思う。

そして、それを表現すれば、まっすぐな愛のエネルギーが他者さえも包んでいく。



科学部員の控えめな笑顔に、そんな「人間の生き方の真髄」を見た気がして。
彼の神々しさに照らされて、はからずしも私は浄化されたのでした。


どうか、あの科学部の彼が、自分の「好き」を握りしめて生きていけますように。

彼の、「好き」という表現に、たくさんの照らされる人たちが生まれていきますように。


そんなふうに、密かに祈りながら、家庭科部の作った150円のマフィンを頬張る私でした。

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