映画評_大和_用写真

少女の鬱屈と成長描く、映画「大和(カリフォルニア)」 基地の町の被抑圧感=未成年の不自由さ

 映画「大和(カリフォルニア)」(宮崎大祐監督)は、現代日本版「青春の蹉跌」だ。首都圏の郊外に住む10代の少女の鬱屈と成長を描く。貧困と無知ゆえに明日への希望も展望もなく、ただ若さを持て余してイラつく未成年の不自由さは、舞台である米軍基地の町の被抑圧感に通じる。

 神奈川県大和市が舞台。高校に進学せず、友達もいない少女サクラは、シングルマザーの母とオタクの兄と3人暮らし。貧しさや社会や自分自身に、いつも苛立っている。ラッパーに憧れ、一人で歌を作っているが、発表する場も勇気も持たない。無目的に自堕落に過ごし、遠縁の店で時折バイトするだけの日常を、米国から遊びに来たレイが揺るがす。彼女は、母の恋人である米軍属の娘だ。

 サクラはやがてレイと親しくなるが、ラップを披露しないのは自信がないからだと揶揄され大げんかに。逃げ出した先でかち合った不良少女3人組にサクラは手酷い暴行を受け、死にかける。以前、ホームレス狩りをしていた彼女らのボスをサクラが殴ったことの報復だった。生死の境の夢うつつの中、サクラは自分の望みをはっきりと覚知する。「生きたい、歌いたい」だと。

 自意識過剰と自己卑下の間を行き来するサクラのアンビバレントな不安定さは思春期特有だろう。己の世界の狭さゆえの鬱屈感、このままではダメだという焦り。自分はもっとすごいはずという根拠のない自信、何でもできるはずという全能感。でも現実には1ミリも動こうとしない怠惰な自分への自己嫌悪。何かを始めることへの恐怖、何も始めてない臆病さへの苛立ち、夢と現実とのギャップ……ぐるぐると永遠の負のループを描く。

 そうした感情を言語化でれば、少しは楽になれる。だがサクラは言葉を持たない。ラップの勉強のためボロボロになるまで辞書を読み込んでも、しっくりくる言葉を与えてやれない。言いたいことや伝えたい気持ちが、破裂しそうに体内に詰まっているのに。的確な言葉にならない感情は、出口を失って腹の中にどす黒く渦巻く。伝えられないもどかしさがイラつきになる。だから、「くそ」とか舌打ちとか、ただの悪態だけが口をつく。見ていて歯がゆい。

 終幕、市民発表会でサクラは自分の歌声を披露する。本気で自分と向き合った結果、ついに感情に言葉を与えられたのだ。その会場で、暴行された3人組に会うが、拳を振るう代わりに、ボス格の少女に「ありがとう」と声を掛ける。虚を突かれ、少女も「ありがとう」と返す。

 パンパンに膨らんでいた「肥大した自我」を殺してくれたことへの感謝だろう。「ダメ人間の自分」は一度殺されなければ、本気で生き直すことができなかった。人は、なかなか変われない。本気になれない。サクラは実際に死にかけたおかげで目が覚めた。本当に大事なことが分かった。生きている間に人前で歌おうと勇気が出た。これが第一歩だ。

 すべての子供は成長したい。今の場所が底辺であればあるほど、そこから抜け出したい。嫌な自分から、生まれ変わって、新しく生き直したい。ただ、昨日と地続きの日常生活を送りながらでは難しい。面倒だし、照れ臭くも、失敗が怖くもある。甘えもある。他人に指摘されて腹が立つのは、ぐずぐずしている自分を一番嫌っているのは自分自身だからだ。

 サクラは最後にレイと仲直りする。「ごめん」と言い合い、抱き合って泣く。その姿を黙って見守る母。大人びた言動をしていても、強がっていても、まだ10代。甘えたい年ごろのサクラを、信じて見守る母の存在も、「生き直し」を助けたと言えるだろう。

 人間関係は鏡だ。殴れば、殴られる。「くそ!」と言えば、「くそ!」と言い返される。敵対心を露わにすれば敵視される。でも、「ありがとう」と言えば感謝され、「ごめん」と伝えれば謝られる。相手を尊重すれば、自分も尊重されるのだ。こんなこともサクラはこの間に学んだように思える。

 ところで、なぜ監督は、沖縄でも福生でもなく大和市を舞台に選んだのだろう。沖縄だと、常道の「vs本土」の物語になってしまうから? 首都圏の方が、本土の人に「我がこと」として考えてもらいやすかったから?

 いや、もっと単純な理由だと思う。日本そのものを示す言葉「やまと」に米軍基地があり、米兵が闊歩しているという皮肉。大和市はカリフォルニア州だと地元で囁かれるほど、米国の一部になっている。だからこそ、サクラ(日本の国花)は、自分の気持ちや意見を表し、己れを表現するラップを「歌わなければ」生きていけないのだ。(4月7日から新宿K’sCINEMAほか全国で公開予定)

(2018・2・25、元沢賀南子執筆)


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