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母は師であり、同志であり、ライバルだった。

「OVER  THE SUN」感想文

毎週金曜日の楽しみができました。
元来ラジオっ子なもので、「radiko」と「らじる★らじる」には大変お世話になっておりました。今は「ラジオクラウド」という、ラジオ番組の一部コーナーが(番組によっては放送全部が)延々アーカイブされて聴けるアプリもあり、note書きながら、仕事しながら、勉強しながら、楽しいお耳生活を送ることができています。
ジェーン・スーさんは、書籍『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』を皮切りに、『私がオバさんになったよ』『女に生まれてモヤってる!』を貪るように読み、帯のラジオ番組「ジェーン・スー生活は踊る」もちょいちょい拝聴しておりました。ちょいちょい拝聴だったため、堀井さんのことはこの放送で初めて知りました。スーさんのツッコミと、堀井さんのとろんとした声の感じ。脱線に次ぐ脱線話題。30分前後というほど良い放送時間。考えさせられる「オバさんあるある」な話もあり、何度もアーカイブを聞いています。

母親が選ばなかった方の人生をやっている。

先週の放送から「結局母親が本当に幸せだったのかって考える時期ない?」という話題があり。
スーさんの言葉からは「母親が『母親』にならなかったらどういう人生を歩んでいたんだろうと考えたとき」「母親を母親というところに固定させているのは自分だというところがあって」「母親って本当に幸せだったのかなと思っちゃう、この『グラグラ感』」
最初はピンと来なかったのですが、ふと私も「母が『私の母』以外の人生を選んでいたら?」とファンタジーなことを考えるとともに「私は『私の母が選ばなかった方向から、母を追い抜きたいと思っているのではないか?」と考えたのでした。

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母は師であり、同志であり、ライバルだった。

振りかえると、私は母の背中を追いかけていたのかなと思います。
母は、場所は違えど今の私と同じ「教える系」で定年まで働ききった「職業婦人」でした。今の私と同じ歳のころ、母には中学生になる娘(ワタクシ)がいて。母は兼業主婦をしながら働いていました。
私が小さい頃に、母はいわゆる「働き盛り」で、土日はとにかく「疲れ切って寝ていた」という記憶があります。私は兄弟がおらず、自宅から離れた小学校へ通っていたため、近所に同級生の友達もいない、という子供時代を過ごしました。
遊び相手は自分自身か、夏休みや冬休みに会える従兄か、両親か? というくらいでした。

「健全な小学生の休日の過ごし方って知ってる?」

小学4年当時の私、母に対してこんなことを宣ったそうです。
子どもらしい遊び仲間もいない、兄弟もいない。習い事や塾通いで忙しいわけでもない。テレビゲームやスマートフォンもない、暇ぶっこいてる私。余りに余った余暇に対するフラストレーションをぶつける相手がいなかったのでしょう。
以来、隔週土日のどちらかは、市内から車で40分くらいの山へ行き、私は子どもひとりでアスレチック遊具に駆けまわり、両親は原っぱで泥のように眠り、帰り道に温泉施設へ寄って帰るという「ルーティン団欒」が仕上がりました。

五十路過ぎての院卒オカン。

兄弟がいる場合は、その兄弟をライバル視したり、競い合ったりすることがあるのでしょうか。
兄弟の性差、年齢差でさまざまあるでしょうが、私は専門学校卒で働き始めた両親に対し、「学歴マウンティング」を思っていた時期がありました。
私が四大に通えたのは両親がいたからなのですが、「両親より上の学位に行った。」と、生意気にも父母を超えた感を持っておりました。
しかし、母は50歳をすぎて通信課程で学位を取り、さらに働きながら地元の大学院に入学して修士まで取り、「教える系」として定年までキャリアアップし続けました。
彼女が「大学に行く」「大学院の修士論文がある」という話題を出すたび「あぁ、やられた。」「追い抜かれた」と思ったものでした。


勝手に、母をライバル視していたのだろうと思います。

彼女は県外での単身赴任や、短期ではありましたが研修のための海外赴任も、今の私と同じくらいの年に経験していました。もちろんその間、子どもの私は父と二人暮らし。たまにばあちゃんが様子見に来はしましたが、母不在、ばあちゃんもおらず、という不便さと物寂しさは覚えています。
それでも、母は母自身の思う最善で、自分のやりたいことをやり切ろうとしたのでは、と思います。

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オカンがオカンでなかったら。

「母親を母親たらしめているのは自分という存在」と、スーさんの言葉にありました。母が父と結婚し、私が生まれ、働きながらの母親になる。この道じゃない方を選んだら、母はどんな「女」になっていたのかと、ファンタジーなことを思います。
私が結婚し孫の顔を見せることが親孝行、とは思わなくなりました。今、私は私のできる全力で親孝行をしていると思っています。いっぽうで、ようやく私も「誰に忖度することもない、ワタシの人生」をきちんと選べるようになってきたと思います。私も、スーさんのおっしゃったように「母親が母親でなかったときの『デッドエンド』」を見ようとしているのかもしれません。

「越える・越えない問題」の先にあるもの。

「俺の屍を越えてゆけ」だの「両親を越える(より上の)生き方をする」だの、今となっては「それっておこがましいんじゃないの?」という気持ちがあります。ポイントで、自分の力が両親を越えるところはあるかもしれませんが、
老いてきた母は、今働き盛りにある私を遠くにいても頼りにしているようで。日本にいない私相手でも、ちょくちょく家族会議案が提出されます。

私も「職業婦人」として10年超えてきましたが、いまだに悩むとき、愚痴を言いたいときは、「誰よりも母に」という気持ちがあります。
ある種「同業者」でもあるので、私にとっての母は、「師であり、同志であり、ライバル」なのかもしれないと、今は思います。

現在の母はリタイアから数年。「サンデー毎日」の日々を過ごしています。
仕事を辞めて、4月1日から仕事場として何の所在も無くなって。喪失感とかないのかな? と心配していましたが、オカンは驚くほど専業主婦生活に馴染んでいました。そして、今も私はオカンをスーパーバイザーとして重用しています。オカン入浴中に、風呂場の扉一枚隔てて告解室よろしく、オカンに愚痴を言っていたものです。

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オカンとワタシ。

師であり、同志であり、ライバルであり。姉妹のように感じる、我がオカン。
私が「結婚・出産・主婦・母」という道を選ばなかった流れで、今の母は、私のことをどう思っているのかなと、考えます。
母に「今、幸せ?」と尋ねるのは、確かに難しいです。「幸せ」と答えても「ホントに?」と思うだろうし、「不幸せ」と答えれば、「あぁ、やっぱり」と思ってしまうからでしょう。
ただ、今は私が確実に、オカンを「楽しくしている」という自負があります。
これはこれで、親孝行のひとつではないか、と思います。
先日オカンから「墓碑銘のアイデアはないか」と謎のオーダーがありました。
海を越えても、何かしらの戦力として、当てにされているようです。

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