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人生は二度揚げがおいしい 

 鶏胸肉が特売であったので、今日はこれを唐揚げにすることにした。いつ、誰が考えたのかは分からないが、動物の肉に小麦粉や片栗粉などの粉を纏わせ、油で揚げることで外はカリッとクリスピーな食感、中はジュワッとジューシーで何とも言えない旨味が口中に広がり、内心では体には絶対に悪いだろう、と後ろめたい気持ちになりながらも、一つ、また一つと思わず口に運んでしまう背徳の食べ物である。私は煙草を吸ったことは無いが、以前、職場の人々が大きいガラスの灰皿に吸殻を盛り過ぎて燃え差しから火が出て慌てて水をかけて消火していたことを思い出す。もしも、あれが同じ様に中毒性のある鶏の唐揚げだったらと思うと、皿に大盛になっている唐揚げを嬉々として頬張る人々が喫煙者を笑うことはできないではないのかと考えたりもするのだ。世の中、誰かが夢中になっていることに対して少し馬鹿にし過ぎだ。一所懸命な人を笑う行為は世界の気温をマイナス5度くらいは下げているような気がする。

 今日は胸肉を使ったので、弾力のある肉の内側から汁が滲み出てくる。すると、周りにまぶした粉の作り出したパリパリ感を水分が柔らかくしてしまう。その為、一度揚げてしばらくしたら、再度揚げて皆の称賛するクリスピー感が復活する儀式を行うのである。一度目に揚げるのは鶏肉がまだ内に秘めた瑞々しさを出し切っていないからだ。人間にたとえると、この時点では20~30歳代の若造である。この時の鶏肉は自分の内面からほとばしる感情の行方を探しあぐねており、そのまま内に仕舞っておこうか、それとも外に出してしまおうか、でも人生は一度きりだしいつ死ぬかも分からないから自分を出し切りたい、とコーティングしている小麦粉のことなど顧みず肉汁を出してしまい、全体の完成を幾分妨げてしまう。すると、食べる側の人間は今までの経験と知恵で若造の出した余った水分を少し置いて蒸発させてから再度揚げてやろう、と考えるわけだ。かくて、年頃としては40~50歳代になった一度揚げの鶏肉は再度、油に放り込まれ、今度は完全にからりと揚がる。纏わせた小麦粉ももう二度と肉汁を外に漏らさないと覚悟しているかのような表情を見せる。鶏肉の唐揚げも、人生も一度揚げでも充分おいしいが、よりしっかりと揚がった二度揚げは外側も内側もよりしっかりとおいしく仕上がっている。

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