最善のプレゼントとは…?について考えていたら西野カナ先生が解を導き出してくれていた。
イントロダクション:最善のプレゼントとは…?
年が明けた。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2023年の末、クリスマス前、錦通りを車で走っていると、助手席に座る友だちから不意に聞かれた。
友人A 「いつからクリスマス楽しめなくなった?」
問いに少し戸惑いつつ、「高校で最後かな」と答えた。その友だちも同じだった。
・・・。
・・・。 ・・・。
もちろんそもそも、クリスマスという行事が楽しくないわけではない。でも、たしかに高校生の時の、無邪気にただ“この瞬間”を楽しめていたその感覚はかけがえのないもので、今となっては追憶の対象でしかない。では一体、この純粋な感覚を阻んでいるものは何なのだろうか。
恐らくそれは、「クリスマス」という祭り・文化を構成する大きな要素の一つであるプレゼントというものに起因している。となれば、もしプレゼントに関するネガティブな感情を軒並み排除することができれば、あの時の純然たる気持ちを取り戻すことができるはずだ。
本心を言うと、クリスマス前にこのノートを出したかったのだが、年が明けてようやく内容が煮詰まった。今日から358日後のクリスマスを全力で楽しむ方法のヒントを掴むことを目的に思考していきたい。
この問いを考えるにあたって、西野カナの『トリセツ』は大切なヒントを教えてくれる。
“何でも無い日のプレゼント”が“効果的”(①)で、“手紙”が“一番嬉しいもの” (②)なのだ。
以下、それぞれ①、②について分けて考えていく。
ヒント①:意志と規範の狭間にある「プレゼント」という存在
まず一つ目のヒントは、プレゼントというものが、自身の意志からなされている自発的なものなのか、あるいは制度的(儀式的)なものなのか、極めて判断しがたいという点に関連している。
確かにプレゼントを渡すという行為そのものは、自分自身が「している」。一方で、渡すという行為そのものには少なからず「クリスマスだから」あるいは「渡すことが(恋人文化として)当たり前だから」といった側面も含まれている。
“何でもない日”に渡すことで、この「制度的な側面」がプレゼントから排除され、純然たる「意志」が露呈されるからこそ、プレゼントが“効果的”になるのかもしれない。逆に言えば、「制度」の側面を見せない、ピュアな、ただ相手のためにこれを渡したいという「意志」が表現されたプレゼントが善いものだということになる。
ヒント②:かけがえのない「私」と、昨日まで店の棚に鎮座していた「プレゼント」
ところで、「私」という存在は、固有で、かけがえのないもので、世界に一つのものとして認識されている。両親と自分、友だちと自分、恋人と自分。如何なる関係においても、この認識は相違ないはずである。
一方で、プレゼントとなる前の“商品”(と我々が呼んでいるもの)は、布やプラスチックの塊をもとにして数百・数千万単位で工場生産され、店に並んでいる。
そのように考えると、この無機質な〈商品〉という存在を〈プレゼント〉へと転換する要素こそが、この問題を考えるためのヒントとなる。
これに対し、NijiUは割とアナロジーの要素として参考になるのではと思う。アイドルという存在は、そのもとが人間である以上商品として扱うのはタブー視されがちである。とはいえ広告塔/看板/象徴としての存在であるからには、代替可能性を常に、はらんでいる。その代替可能性を、オーディションまでのストーリーを以て、メンバーの固有性を前面に出す形で掻き消し、1人の人間として視聴者に認識させている。
しばしばプロセスエコノミーと呼ばれるものは、このように、モノがありふれたこの世界で、モノに強引にストーリーを刻印し、その固有性を強調することを言う。
このように考えると、商品からプレゼントへの変遷にはストーリーがあり、そのストーリーそのものが“手紙”なのだ。善いプレゼントとは、プロセスにストーリー性のあるモノである。だから、何を買うかよりも、どのような考えで買うのか―そのプロセスが重要ということになる。
まとめ
私たちは、様々な規範の中に生きている。
その規範が平穏に生きる私たちに対してどのように作用するのかについて取り扱ったのが過去の論文だった。
この内容はその論文の続きとも言える内容だったと思う。
ここまで超真剣に、善いプレゼントとは何かついて、プレゼントの概念レベルまで深掘りして考えてきた。とはいえ、ちゃんと相手の立場で何が喜ばれるか考えて、それを伝えて渡せば少なからず喜ばれるという原理原則を証明する形になってしまったのは、当然の結果とも言える。
ただしそこには、相手のことを「広い心と深い愛で全部受け止めて」いることが前提となる。
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