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【🔍調べてみたら】なぜ「器」が将軍の“権威の象徴”になったのか?(後編)

〈前回のおさらい〉
 幕府は陶工に特権を与え、瀬戸焼の製造を支援した。これらの器は贈答品として用いられ、尾張徳川家の権威を象徴した。
 …器?ではなぜ、権威の象徴が“器”だったのか?というのが前回の内容。

 政治学を勉強する前に読むべき本BEST3に入るものに、『人殺しの花:政治空間における象徴的コミュニケーションの不透明性』がある。この本は、戦中期において“桜の花”が「生きることと死ぬこと」という両義的な意味合いを持つことに着目する。そのパラドキシカルな不和(=矛盾)が残るままに、桜の花が“美の象徴”として、そして“善い生き方”を示すコミュニケーションの手段として用いられたことを、象徴というワードをとことん分析しながら解明していくという一大プロジェクトだった。
 長くなったが、要は桜の花がなぜ“善い人生(生と死)”を規定することになったのかについて解明し、その中で“象徴を通じたコミュニケーション”の一般的理論を規定する本というわけだ。

 この本を端的に要約するとそんな感じだが、人文学の理論書でもあるので非常に体系化された内容になっている。
 著者曰く、象徴を通じたコミュニケーションは3つの性質を持っている。

多義性:矛盾した2つの意味をもつ。
美的要素:何かしらの“美”と結びつく。
無のシニフィアン:この部分にかんする記述は正直何を言っているか分からない内容もあったが、無理やり要約すると、象徴が示す意味・内容が実際には存在しないものであるということ。本では「非-外在化」と記される。

 この3つの性質を並べると、先の“器”はそれを網羅していることが分かる。

①多義性について
 器というのは“食”と結びつき、非常に日常的な存在である。一方で、“観賞”の対象ともなれば非日常的な存在である。
②美的要素について
 精油の開発などにより、美術品としての性格をもつようになった。この部分に関しては〈前編〉で触れている。
③無のシニフィアン
 器が示す“政治的な権威・権力”というのは、概念や観念でしかなく“存在”しない。

 特に着目したいのは、①の「多義性」である。器というのは、砂漠の真ん中でない限り毎日使うもので、器の歴史は人類史と一致すると言っても過言ではない。そのように非常に日常的な存在であるにもかかわらず、美術品として高められ、ここでは将軍家の権威・権力の象徴となった。
 このように考えると、器を権威の象徴としたのは、「Aさえ~なのだから、況やBをや」の構文を形成するためだ(Aが器にあたる)。相手の認識の最低ラインを持ち上げることで、その上を未知数にしていくという試みだったと推測できる。

 このように見ていくと、日常のあらゆるものを“象徴”と捉え、その多義性に着目することで面白い分析の仕方ができるようになる。
 ジェラピケもそれかもしれない。
 パジャマがこんなにかわいいのだから、況や勝負服をや。という想像を誘発する非常に危険な存在である。


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