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映画の半分はサウンドである - 『セッション』

※ この文章には映画の内容に触れる記述が含まれます。ご理解のうえ読み進めてください

2014年 アメリカ映画(デイミアン・チャゼル監督)

音楽映画でもジャズ映画でもなく、これは「スポ根マンガ」だ。

この映画の登場人物は全員が最初から最後まで、音楽がもたらす感情の深みとか、表現の芸術的な幅といった「音楽の本質」には、まったく関心がない。ここで追求されるのは、速さ、正確さ、パワーといったフィジカルな面だけ。この映画が描く「演奏」とは要するに、音を使った「競技スポーツ」なのだ。

主人公である音楽大学生の専門が、トランペットやサックスのような旋律楽器ではなく打楽器なのも、本来は精密な知的作業であるはずの「演奏」という行為を、とにかく目に見える運動量で表現するための設定だろう。

なにしろ、本作におけるハードな特訓は、クローズアップの連続で表現される。

練習のし過ぎで破けた手の表皮!
氷のボウルに浸した手から水中に広がる鮮血!
飛び散る汗で表面が水浸しのシンバル!
永遠に続くダメ出しに、真夜中を過ぎた壁時計!

身体を痛めつけ、長時間続けてこそ「練習」! という、このステレオタイプな演出はどうだ。音楽映画と言うよりも「スポ根マンガ」と呼ぶしかない。

要するに、この映画は「フットボール部のルーキーvs.鬼コーチ」とか「カンフー入門者vs.鬼師匠」みたいなスポ根ストーリーを、音楽学校という「文化系」に置きかえた話なのだ。

その証拠に鬼教師の指導は、テンポが違うとか音程がズレてるとか、不正確な演奏に対してダメ出しすることだけ。音楽について思索したり、音楽性を深めたりするような指導は一切ない。

主人公も「音楽」ではなく「音楽家になること」だけが目標で、そのために周囲が全く見えていない視野狭窄の馬鹿として描かれている。自分から勝手に口説いて勝手に振ったり勝手によりを戻したくなったりするガールフレンドの存在も、高飛車な発言で周囲を怒らせてしまうパーティの場面も、主人公の馬鹿度を強調するためのエピソードだ。

主人公がラストで見せるのも、あいかわらずパワーでごり押しするだけの「スポーツ」だ。タッチダウンを決めようとライバルのタックルを振り切って走り続けるフットボウラーのように、周りなどおかまいなしに身勝手なプレイを止めず、猪突猛進する主人公。

ところが最後の最後、一度は主人公を陥れようとしたライバル = 鬼教師が、主人公を見ているうちに熱くなってノッてくる。このただひたすら力まかせに叩きまくるだけのパワー・ドラミングを、鬼教師はなぜか気に入ったらしい。

思わず「ええーッ!こンな演奏でいいのーッ!?」と叫びたくなる場面だが、全力で戦った後は仲直りするのがスポ根…というよりも少年マンガの王道。

「お前には負けたぜ(ニヤリ)」
「お前こそ、よくやったぜ(ニヤリ)」
そんな「吹き出し」が、二人の頭上に浮かんで見える。

これがスポ根マンガでなくて何であろう。

(2015年4月21日)


音楽 ジャスティン・ハーウィッツ

チャゼル監督とは、大学の卒業制作ミュージカル映画でコンビを組んで以来の仲。注目を集めた本作に続くラ・ラ・ランド(2016) でアカデミー作曲賞・歌曲賞ほか多くの賞を受け、その後もファースト・マン(2018)バビロン(2022)と共同作業を続けている。


映画の半分はサウンドである

週刊ヲノサトル https://note.com/wonosatoru/m/mcbc59cc1bcc3
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