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週刊ヲノサトル vol.56 (2019.11.1-11.17)

/話しているのは誰?
/子持ちミュージシャン
/写真と録音
/強さとは勝つことではない
/文字の終わりの始まり
/教員の役得
/ターミネーター:ニューフェイト
/好きこそものの上手なれ
/耳コピー
/男時と女時
/ELLE LOVES ART
/おかめはちもく

諸事情で1週間遅れとなった「先週号」無料公開です。


11月11日(月)

◾️今日まで展示中の『話しているのは誰?』新国立美術館に駆け込み鑑賞。たいていの美術館は月曜休館だが、ここはなぜか火曜休館なんだよね。なぜだろう?

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資本主義、沖縄、五輪と戦争など、社会問題に踏み込んだナラティブな作品が印象的だった。


11月12日(火)

◾️

「パパ、輝いたことあるかい?」
「今、輝いてる」
「それはどうかな」


#息子氏の質問



◾️この図のリアリティに、全子持ちミュージシャンが泣いた

「子供、ひるねしない!!」「Eテレたすけて」のあたり、首を縦に振りすぎて外れてどこかに飛んでった

うちの子も小さい頃、楽屋までは連れて行ったけど、ステージはさすがに無理だったな……(遠い目)

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◾️「写真」って、音楽に置き換えたら「録音」だよね。

写真家がカメラやレンズについて語る口ぶりは、録音技師がマイクやアンプについて語るそれに似ている。

どちらも一流の人は、アプリで後から処理するといった小賢しいことを考えず、撮影や録音現場でのベストショットに全身全霊を賭けるところも似ている。

写真で言えばキャパブレッソンのような、ヤラセと偶然がかみあった「何かが降りてくる瞬間」というのは録音にもある。一流と言われる人は技術以上に、そういう「瞬間」を呼び込んだり捕まえたりする能力にたけているのかもしれない。

それが、何もない0から1を生み出す画家や作曲家の「創作」と同質な仕事か? と考えだすと、それはちょっと種類が違うような気もするけれども。本質的にはそもそもゼロからの「創作」なんてありえない、とも言えるわけだし、いちがいに語れない話ではある。


◾️「強さ」とは、まわりを倒して一人だけ生き残ることでも、誰よりも速く到達することでもなく、淡々とやるべきことをやって食べて笑って眠ることである。

「強さ」とは勝つことでなく、負けないことである。


11月13日(水)

◾️

「動画なんぞまるっと見てられん!」って、ホント同感。

ここ数年、文書なら数秒で読み終える話までが、わざわざ視聴に時間のかかるYouTube動画で紹介されるようになってしまった。インスタのように説明より画像重視なメディアの隆盛も、お役所が公文書をガンガン破棄するようになってしまった信じ難い現実も、じつは同じ現象の一部なのではないか?

大げさに言えば「文字」という文化の終わりが、すでに始まっているのかもしれない。

人類はかつて「文字」という記号によって思考を抽象化することで、想像力の射程距離を広げ、繁栄をとげた。だが、それによるテクノロジーの発展の果てに生まれた「映像」という具象的なメディアによって、逆に今や文字の力を放棄しつつあるのかもしれない。などと考えてしまう。文字で。

11月14日(木)

◾️アーティストが自作の実現に全身全霊を傾けるのは当然だ。その評価が自分の名刺になるわけだから。しかし補佐するスタッフにとっては、様々な「仕事」の一つに過ぎない。こういう当たり前のことがわからないアーティストは、スタッフに「仕事」以上の過大な要求をしがち。そして人が離れていく。

個人的な観測範囲で言えば、スタッフに恵まれるアーティストの多くは(才能や実力は大前提として)完璧ではないがどこか人を惹きつける愛嬌のある人間だ。つまり「この人、私が助けてあげなきゃ」と思われるタイプだ。「俺が引っ張る!みんなついてこい!」という親分肌よりも、あんがい。


◾️

この方が書かれている最大の退職理由は

毎年同じ授業を繰り返していて、自分のスキルが何も蓄積されていないことに危機感を感じた

ということらしい。

大学教員のはしくれとして言わせていただけば、当方の感想はまったく逆だ。講義や演習のためには毎年新しい情報をインプットし、内容をアップデートし続けざるをえないし、それが自分のスキルや知見として蓄積されていく。

動機なしに勉強や情報収集を続けるのは難しいが、「誰かに伝えなければならない」という義務感は、金銭抜きでもわりと大きな動機になるので、教員や先輩や上司という立場になると、学生や後輩や部下だった時よりも、むしろ勉強するようになったりする。

教育という仕事を「教えること」「自分の知を与えること」というアウトプットととらえる人にとっては単なる消耗かもしれない。だが学生という「確実に教員よりも未来を生きる存在」との交流から何かを学ぼうと思うなら、教室は「繰り返し」どころか常に新しい情報の宝庫だ。

ゼミや演習のような少人数授業はもちろん、大人数の講義科目でも工夫すれば学生の反応や意見や、「こんな話もありますよ」というタレコミ情報を得たり蓄積したりすることは可能だ。そうやって得た新ネタを翌年にしれっと披露する「情報の自転車操業」もまた楽しからずや、だ。

なにしろ、今や「知」や「情報」それ自体には誰でもアクセスできる。いやニッチな情報は、むしろ学生や若い部下の方が持っていたりする。それを吸い上げて整理し、分析し、系統立て、タグづけして、生の「データ」を実用的な「インフォメーション」に編集する鮮やかな手際を見せられることが、今や教員や上司の条件かもしれない。

ちなみにプロのミュージシャンを大学に招聘したりすると、みんな学生に感想をきいたり直接話したりすることを、とても喜ぶ。音楽家も大御所になればなるほど、最も音楽に敏感な20歳前後と交流できる機会が少なくなるから。

定点観測のように、毎年そういう年代と肌感覚で接することができるのも、教員の大きな役得かもしれない。


11月15日(金)

◾️映画『ターミネーター:ニューフェイト』

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貫禄たっぷりのサラ・コナーが車から降りてくる登場シーン。

カッコ良すぎでしょ!

この大見得には「成田屋!」「待ってました!」「日本一!」と大向うから声をとばしたくなった。屋号は知らんけど。


ところで、この映画の主役が『マッドマックス怒りのデス・ロード』におけるシャーリーズ・セロンなみの破壊力で暴れまくるマッケンジー・デイヴィスであることに誰しも異論ないと思うが、この人が『ブレードランナー2049』娼婦マリエット役だったのには、まったく気づかなかった……。(個人的敗北感)

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あと、キーパーソンのダニーを演じたナタリア・レイエスは、世の女優を二種類に分けるとしたら当方の好きなミシェル・ロドリゲスの人で、眼福であった。

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↓こちらがミシェル姐さん

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◾️同じ音を扱う仕事でも、作曲家演奏家は根本的に異質だ。「作曲家」は美術家や脚本家や建築家、「演奏家」は俳優やダンサーやアスリートの方が、感覚的には近いのではないか。もちろん作曲演奏の両方をこなす音楽家や、脚本を書き演出する俳優もいるが、一般論として。

ところで、作曲する人の多くは、聴くことから始める。音楽をたくさん聴いてるうちに自分も作りたくなってくるわけだ。

だが美大生を見ていると、名画をたくさん観たから真似して描き始めるわけではなく、最初からひたすら自分が描くことだけやっていて、美術史や過去の絵にあまり興味がなかったり、知らなかったりすることが多い。この違いは何だろう。

絵でも、たとえばマンガなんかの場合は、読むのが好きで好きで、それがこうじて自分も描き始める人が多い気がする。ロックを聴くのが好きで好きで自分もバンド始めちゃうみたいな衝動。それならよくわかるのだが。

映画監督も、映画が好きすぎて観まくったシネフィル(映画狂)が、やがて自分も撮り始めたって話は多いよね。(ゴダールにしろタランティーノにしろ)

何かを好きになりすぎること。それもまた、一つの才能なのかもしれない。その「好き」が自分というコップに溜まりすぎて、コップのふちからこぼれる瞬間、「表現」が始まる。


◾️ちなみに当方の作曲は、小学生のころ映画が好きすぎて、映画音楽を耳コピーして弾いたり楽譜に書き留めたりする自己流から始まった。

最終的にはスターウォーズのテーマを全パート耳コピーして、オーケストラ譜に書き起こしたりしていた(記譜法も知らなかったけど)。その頃になると、楽譜を書くこと自体が好きになっていた。

要するにヒマだったんだな。

だが、人生の中で「子供時代」というのは唯一そういう、ヒマじゃなかったらできないわけのわからないことに熱中することが許される時間なのだ。その結果、まあ紆余曲折あったが今、こうやって曲がりなりにも音楽の仕事ができている。

耳コピーといえば、CM音楽を依頼されたことがある。

古い映画のテーマ曲を耳コピーして譜面に書き起こし、あらためてビッグバンドに演奏し直してもらうという、いささか面倒な仕事。オリジナル音源は版権の関係でどうしても使えなかったらしい。短時間でのこういう仕事を二つ返事で引き受けられたのも、「昔とった杵柄」ではあったか。

オリジナルはこちら。


◾️むかし、能の世阿弥が「男時/女時」と表現したように、人生には何も始まらない時、うまくいかない時、ヒマな時があるもんだ。そんな時は腐らず淡々と、筋トレでも自主トレでも何トレでもやっとけばいい。運勢は波だ。ある日とつぜん動き出す。その時、この「トレ」が効くのさ。これを「人生の伏線回収」と呼ぼう。

男時女時という言葉は現代では政治的に不適切な表現とも考えられますが、当時の状況を鑑み、また芸術作品であることに配慮して、原文のままとしました(キリッ


◾️こちらは「目的地を見失った状態」という目的地にきちんとたどりついた、理知的な作品ですね。


11月16日(土)

◾️再び映画『ターミネーター:ニューフェイト』の話。

冒頭の回想シーンに、若いままのエドワード・ファーロングが出てきて「えっ!?」と驚いた。

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が、じつは別の俳優さんが演じた身体と声に、昔のファーロングの顔をCG合成したらしい。クレジットには "John Connor Reference"(ジョン・コナーの参照元)と。

顔の差し替えといえば、2005年に発表されたこちらのCMを思い出す。

元ネタはもちろん、往年のミュージカル『雨に唄えば』

最初見た時「どうやって編集したの?」と驚いたけど、もとの映画に似せてセットまで全て作り、ダンサーに演技させてジーン・ケリーの顔だけを合成したのだという。

こういう手法を突き詰めると、俳優さんからは顔のデータだけもらって、実際の演技は黒子みたいな別の人がやることも可能になってくるね。

これって、アニメ描画の自動化・リアルタイム化によって実現してきたVtuberのような「見た目と”中の人”が別人でもかまわない世界」に、実写側という真逆のアプローチから接近してる話にも思える。


11月10日(日)

◾️代官山のELLE LOVES ART展。

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会期が昨日と今日の2日間だけというので大行列を覚悟して行ったが、すんなり入れて拍子抜け。(大の行列嫌いなので助かった)

塩田千春、 毛利悠子、 森万里子、 やなぎみわ、 山城知佳子、 吉澤美香…… とビッグネームめじろおし。っっていうか詰め込みすぎだろ! とツッコミたくなるぐらい、作品がぎゅうぎゅうに展示されてました。2日間しかやらないなんてもったいない……。

あと、無料配布されたエル・ジャポン特別編集ペーパーが充実の内容。

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各年ごとに流行したアイテムやデザインを紹介したり

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大きなトレンドやアイコニックなデザイナーで年代ごとの特徴をまとめたりと、コンパクトにファッションの歴史が概観できて、これは資料価値大。


◾️次回のライヴ用に製作中のVJ映像を見たオーガナイザーから「最後は映像無しの方がお客さんは演奏者に目が行くのでは?」と助言され、ハッとなった。

相乗効果のためには引き算も大事という、ふだん劇場や映像の音楽では常に意識してることを、自分のプロジェクトになると忘れて、映像も音も100%詰め込んでしまっていた。

ものを作ってると、いつのまにか何を目指して作っていたか忘れて「作ること」それ自体に熱中し、ゴールから逸脱してしまうことがある。そういう時、客観的に意見してくれるインサイダーの存在はありがたい。いわゆる「傍目八目(おかめはちもく)」である。

WALKING ON THE MOON
2019.12.02 (月) 開場19:15 / 開演19:35
会場 : 神楽音 (神楽坂)
DJ : 宇佐蔵べに
LIVE : ヲノサトル (feat. trumpet 田澤麻美) / 仮谷せいら
詳細・チケット情報はこちら


それでは、また来週。

(2019. 11.25)


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