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鯨のすき焼き-家族の風景-

我が家では、すき焼きといえば、鯨肉のそれを指した。
中学に上がる頃まで、私は牛肉のすき焼きを自宅で食べたことがなかったのだ。

今でこそ鯨肉は一部で高級食材のような扱いを受けることもあるが、とんでもない。
かつて鯨肉は牛肉の代用品、安物の代名詞だった。
関西ではより一般的だったようなのだが、学校給食に月に一度は鯨肉の甘露煮なるメニューが登場するほど、それは大衆食だったのだ。

鯨肉の赤身は、とんでもなく硬くて、味わいも薄い。
皮の周りの白いゼラチン質には、コリコリとした独特の歯ごたえがある。
正直、そんな鯨肉のすき焼きを私は一度も美味しいと思ったことがない。

けれど、ある時期まで、我が家のすき焼きは鯨肉だった。
私はそれをすき焼きだと思っていたので、あんなものをご馳走だと有り難がる世の中に対して、全く腑に落ちないと感じていたものだ。
もしかしたら、大人たちは子どもが寝静まった後に牛肉を食べていたのかもしれないが、もしそうだとしたら、我が親ながら実に巧妙である。
私たち姉弟は一切そんなことに気がつかなかった。



いつ頃、鯨が牛に代わったのかと考えてみるに、それはちょうど引越しをした頃ではなかったかと思う。

私が生まれた家は、そこそこ交通量のある道路脇に立った、小さな一戸建てだった。
道路より少し低い位置に立っていて、二階が普通の家の一階に当たる位置にあった。
大型トラックが脇を通る度、窓がビリビリと震えて、軽い地響きがした。

当時はそんなこと考えなかったが、今思うと、なかなかみすぼらしい家だ。

実家は建築板金業を営んでいるので、屋根も壁もトタンだった。
増築や改築を繰り返した家は歪な構造をしていて、階段がなぜか2箇所あって一方通行で家の中を一周できた。
トイレが外と中にあって、中二階に押入れと子ども部屋があって、いたるところに窪みや隙間や段差があって、すなわちかくれんぼをするのに最適の家だった。

子ども部屋は窓を開けたとき、ちょうど目の高さに道路を走る車のタイヤが見える。
窓際に置いた2段ベッドを使っていた私は、夜中じゅうタイヤ音を耳にしながら眠った。

テレビはひいおばあちゃんの部屋にあって、夕飯の後は、ひいおばあちゃんが布団を引いている横で団欒していた。
基本的に老人が中心の家で、ひいおばあちゃんが時代劇を観るときは、みんなそれを観るしかなかった。
早寝早起きのおばあちゃんが夜8時に眠ってしまった後も、その部屋でそのまま、みんなテレビを観ていた。

本当はテレビは二階の洋間にもあったのだが、そこに行くのは、どうしても観たい番組があるのにチャンネル争いに負けてしまったときだけだ。
なぜだか家族は、放っておくとみんな同じ部屋に集まる習性があった。

皆が食事をした居間は天井が低く自然光があまり入らず、虫の死骸が黒い点々を作る蛍光灯の下に長方形の薄いテーブルを置いて、家族8人がそれを囲んだ。
鯨のすき焼きを食べた記憶は、いつもそのテーブルだ。
何をしゃべっているのか判別できないがなり声の祖父が一等上座に座り、ひいおばあちゃんがその対面に座った。
父が座り、子どもがその向かいと両脇に座った。
余った席に祖母と母が座った。
自営業の父は仕事の帰りが早かったし、夕飯には家族の誰も欠けることはなかった。
狭くて古くてみすぼらしくて、すき焼きの肉は鯨だったけど、いつも賑やかで楽しい食卓だった。

小学校6年になる直前に新しい家に引っ越して、テーブルはかつての2倍以上の大きさになり、広々としたダイニングにゆったりと置かれた。
それと同時に、すき焼きの肉も牛に代わった。

広いダイニング。
大きなテーブル。
明るい陽の光。
もう地響きなんかしない家。

でも、今、その家で、そのテーブルを使う人数は少ない。

まず最初にいなくなったのは、祖父。
それから、私。
その半年後に、ひいおばあちゃん。
上の弟が実家を出て、下の弟は実家に暮らしていてもほとんど親と一緒に食事をしない。

今は、父と母と祖母の3人だけの食卓。

自然な時の移り変わりが、ごく当たり前に家族のかたちを変えていく。
親は子どもの成長を喜ぶけれど、それは、全てのものがずっと同じままでいられないということ。

私があんなに希望に胸を膨らませて実家を出たあの日、両親たちはどんなに寂しかっただろう。
昨日までそこに座って毎日一緒に食事をした娘がいなくて、空いたままの椅子、使われない箸とお茶碗。
その空虚さを、今の今まで考えたことがなかった。

狭くて古くてみすぼらしくて、すき焼きの肉は鯨だったけれど、いつも賑やかで楽しい食卓が、本当に心から懐かしい。

たとえば、10歳くらいのときの、ぬくぬくしてて永遠に見えた平凡。
いつか来るはずなのに、まだはるか夢にしかすぎなかった未来。
ずっとお父さんとお母さんの子どもでいて、 ずっとあのまちで、陽が落ちるまで遊んでいられたら。

「この歌を聴いたら、yukoちゃんをイメージする」と言って、友だちが教えてくれたハナレグミの「家族の風景」という歌。
聴いたら、自分でもびっくりするくらい、泣いてしまった。

もう決して帰れない、もう永遠に戻れないけれど、幼い私が毎日あたたかい家族たちと、いっつもいっつも笑って暮らした、あの想い出が今の私を支えている。


家族の風景(2002年・日)
音楽:ハナレグミ

■2007/12/1投稿の記事
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