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アグリジェントにつくまで-西の魔女が死んだ-

Hotel Baglio Conca D'oroを発ったのは、Natale(イタリア語でクリスマス)の朝だった。
朝食室でカプチーノを飲んでいると、ジョジョとルイージが現れて「Buon Natale」と声をかけてくれた。

「私は今日チェックアウトするんです」と言うと、「日本に帰るんですか?」と尋ねるので、「アグリジェントへ行くんです。それからカターニアに行って、ミラノに寄って、それから日本に帰ります」と今後の行程を説明する。
ああ、シチリアの見どころをまわるんだね、といった感じで誇らしげにジョジョはうなづいた。

9時にPIAZZA INDIVENDENZAまでのバスを頼んでいたので、手早く荷造りをしてフロントへ向かう。
今日はクリスマス、タッソもアントニオもお休みらしく、初めて見るレセプションの男性がジョジョに車のキーを渡す。

「さあ行きましょう」とジョジョが手招きするのに従って、シルバーのミニバンに乗り込んだ。
とても満足度の高い、良いホテルだった。
夏のオンシーズンにはさぞかし多くの人で賑わうのだろう。

そう思っていると、5分と行かないところにある建設中の建物を指差し、ジョジョが「Hotel Baglio Conca D'oro Dueですよ」と説明する。
こんな田舎に立派な建物が建つんだなあとちょうど気になっていたのだが、それがHotel Baglio Conca D'oroの新館だったとは。どうりで外観の雰囲気が似ていると思った。

新館は本館よりも規模も大きな建物で、おそらくプールやなんかも構えるんじゃないかという趣だった。
4月には完成すると言うから、次の夏はより一層多くの客が、このホテルの温かい歓迎を受けるに違いない。
新しい従業員も増えて、また新しい物語が繰り広げられるだろう。

パレルモの旧市街の端にあるPIAZZA INDIPENDENZAは、この街最大のバスターミナルになっている。
ジョジョにお礼を言って、「チャオ」と告げる。
イタリア語のサヨナラって、なんてかわいらしくて明るい響きなんだろう。
その軽快さが好きだ。

既に出発を待っていた中央駅行きの109番のバスに乗る。
もう、この街の主要な路線は覚えた、と思ったら、もうここを去る。
旅のきままさ、かりそめさを感じる。

アグリジェント行きの列車は11時5分発と、2日前にネットで調べた。
シチリアの鉄道はそう発展しているとは言えず、どこに行くにも大抵各駅停車のため移動には長距離バスの方が早い。
ところがそれはクリスマスで、バスは全面運休とのこと。しかたなく列車の時刻表を調べると、アグリジェントならバスも列車もほとんど変わらないことが分かった。
やはり各駅列車で2時間の道のりである。

列車での移動の方を、私はもともと好む。
バスでは読書ができないし、下手をすると車酔いするし、まず間違いなく眠ってしまうからだ。

人影まばらな駅のホームで、私は日本から持ってきた2冊目の本を開いた。
「西の魔女が死んだ」。
梨木香歩という児童文学作家が書いた中編小説で、本屋の文庫コーナーで平積みになっていたのを、購入したのはかなり前だが、なんとなく読まないまま放ったらかしになっていた。

西の魔女とは、中学生である主人公の祖母のこと。
登校拒否になってしまった中1の少女が、初夏の日々を、日本で暮らすイギリス人である祖母の家で過ごす。
自然に親しんだり、作物を育てたり、家事をおぼえたり、祖母から様々なことを学び、少しずつ彼女の自己が形成されていく。

いかにも児童文学作家が書いたらしい、少し不思議で、少し示唆的な物語だ。
「耳をすばせば」「思い出ぽろぽろ」「となりのトトロ」といったスタジオジブリの映画に出てくる女の子のイメージに重なる。
時代に置いていかれたように繊細な、だからこそ普通の世界では生きにくい女の子。

私はそういうタイプの女の子ではなかったような気がするが、少し不思議な体験なら中学1年のとき、なんとなくそんなことがあった。
こっくりさんとか、ノストラダムスとか、なんかそういう超自然的なものにイマジネーションをかき立てられる年頃だ。
一人の友達が「これ、5回連続で当ったら予知能力があるんやって」とどこかから仕入れてきたゲームを提案したことから始まった。

そのゲームは実に単純なもので、目を閉じた人の額より少し上の辺りに指で数字を作ってかざし、目を閉じた人がその数字を当てる、というもの。
もちろんかざした指を目視すること、触れることはできない。

そこにいた女の子たちが次々とそれにチャレンジしたが、なかなか当らない。
時々偶然に当ったとしても、それが2回、3回、まして5回連続で当るなんていうことは到底なかった。

私もチャレンジしてみた。
少し緊張しながら目を閉じ、額の少し上辺りに全神経を集中させた。

友達の指がそこにかざされるのを感じた。
そして、これが不思議なことに、見えたのである。
指が、目を閉じていても、はっきりと見えた。

見えたというと語弊があるかもしれないが、間違いなく指のかたちがありありと、額の上に形作られて感じられたのだ。
ぼんやりとなんかじゃない。それは、はっきりとしていた。

とはいえ、思い込みかもしれないし、と思いながら、恐る恐る1回目の回答をしてみた。
「当った!」と友達が声を上げた。

2回目も、3回目もはっきりと見えた。
そして、その度、友達が「当り!」と叫んだ。
正答率は実に100%だった。
しかし答えが当ったとかそういう問題ではない。
はっきりと見えていて私は自信たっぷりに回答をするのだから、それは勘が鋭いとか運が強いとかいう問題ではないのだ。

連続5回を裕に超えて、10回でも20回でも正解が続くと、さすがに友達も私もひどく興奮してきていた。
近くにいた人を誰彼構わず呼んできて、私の透視まがいの芸当を披露した。
この「奇跡」は周囲の友達にも、感動と疑念がないまぜの興奮をもたらした。

指をかざすのが誰だとしても同じだった。
家へ帰って弟たちともやってみたけれど、それでも、きちんと指のかたちが見えた。
弟たちも、姉の意外な才能の発露に驚きをかくせなかった。
「すごい!すごい!」
小学生だった彼らは、何度も何度も、それを見せてくれとせがんだ。

おばあちゃんにも見せてみた。
子どもが示すほどの大きな感動は見せないが、「はあ、すごいなあ」とおばあちゃんは笑っていた。

自分にはなにやらすごい力があるんじゃないかという気がしてきた。
こんな単純なゲームだけじゃなく、もっと他にも隠れた才能があるかもしれない。
私は超能力者なのかも、と無限にイマジネーションが広がった。

けれど、両親が帰宅して、いよいよそれを披露することになったとき、事態が変化した。
何十回も繰り返したと同じように弟が私の額の少し上に指で数字を作ってかざした。
けれど、急に見えなくなってしまったのだ。

「あれ?」と思った。さっきまではっきりと見えたのに。
結局、なんとなく勘を働かせて答えるはめになった。
そうすると、やっぱり、勘は勘なりの正答率になってしまった。
半分も当らない。

両親は「なんや?」という顔をした。
弟たちは、「おかしいなあ、おかしいなあ」と繰り返していた。
私の方こそ、「おかしいなあ、おかしいなあ」と繰り返した。

とたんに私の偉大な超能力は消えてしまった。
眠ってしまったんだろうか。消えてしまったんだろうか。通り過ぎてしまったんだろうか。故障してしまったのだろうか。
ともかく私は一瞬にして凡人に戻ってしまった。

がっかり。

弟たちは、あの不思議な出来事を憶えているだろうか。
もし憶えていなかったら、あれは私の夢だったかもしれないという気がしてくる。
でも、あれは夢じゃなかった。確かな記憶だ。

今考えて、あの感覚については、ある程度説明のつくことだと思う。
盲目の人というのは、目が見えない代わりに聴覚などの他の感覚が研ぎ澄まされていて、普通の人なら気づくことのないささやかな事象を鋭く感じ取ることができると言う。
また、すれすれのところまで肌に手をかざせば、実際に触れなくても、熱が伝わって十分に気配を感じることができる。
額の少し上に神経を強く集中させてみたとき、そこに熱の伝播なり、空気の流れを遮る壁なり、音の微妙な反響だったりといったことが、指のかたちを「見える」という感覚で示したとしても、それは確かに非常に鋭く細やかな感性の成せるわざだとしても、決して超自然的なことではないと思うのだ。

しかしなぜ、あの日一日だけ、しかも両親の前で得意げに披露する直前までだけ、その力が発揮されたのかが分からない。
微妙な体温とか、おなかの空き具合、眠気のレベル、もしかしたら月の引力との兼ね合いさえも、諸々のバイオリズムが奇跡的に合致したときにしか成り立たないのかもしれない。
でも、分からない。
そこだけは、夢かまぼろしのようだ。

「西の魔女が死んだ」。
読みやすい文体で、さくさくと読み進む。
アグリジェントに着くまでに大方を読んでしまった。

物語のクライマックスでは、主人公の少女が出会った小さな奇跡に、思いがけず涙がこぼれた。
説明のつかないものに出会うのは少女特有の宝物で、それをまた素直に受け止めることができるのも少女特有の懐のような気がする。

今度弟に会ったら、あの私の奇跡について、証言をとろうと決意した。

西の魔女が死んだ
著者:梨木香歩
出版社:新潮社

■2004/12/29投稿の記事
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