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空に吸はれし-一握の砂-

少し遠出をした日のことを振り返るとき、真っ先によぎるのは、必ずといって、帰り道で渋滞する車の窓から見る光景だ。

陽の落ちた山の影が黒く浮き上がる宵口の高速道路に、気だるく灯る赤いテールランプの長い列。
カーラジオから洋楽。
行きがけよりも沈黙の長い車内。

一日遊んだアクティビティの記憶は幾枚もの静止画の連続として残り、祭りの後のような帰り道の記憶は軽い疲労感とともに動画と音として残る、という感覚。

楽しかった記憶。
楽しかったと反芻している記憶。

「yukoちゃんが、今日のこと、どう表現するのか楽しみだよ」
「今、それを考えてた。どう言葉にするかって、まさに今考えてた」
「それを考えてる沈黙だったの?」
「そう。それを考えてる沈黙だった」

初めてのウェイクボードは、板の上に立ち上がることさえままならず、嫌というほど湖の水を飲んだ。
ボートのトーイングは予想したよりずっと強くて、おかしな力の入れ方をしたせいか、腕が痺れるほど痛い。
後半は握力が奪われて、バーを掴み続けることができず、すぐに水に放り出されてしまう。
頭からつんのめるか、吹っ飛ばされて背中から落ちるか、いずれにしても無様なもので、華麗に湖面を滑る経験者たちを横目に、到底自分はうまくなれるような気がしない。

派手に水に落ち、金子賢そっくりな操舵者兼インストラクターが、ボートを回りこませて「大丈夫ですか?」と心配げに声をかけてくる度、「大丈夫です・・・」と情けなく答えるやりとりが続いて凹む。
実は内心、もう投げ出したいと思ったが、「あと一本で」と言われたときには、やっと開放されるという想いと同時に、このままでは帰れないという想いが湧き上がってきた。
ひょっとして気持ちの問題でなんとかなったりするんじゃないのと、根拠の薄いアイデアが突如よぎり、ともかく絶対に、振り落とされてたまるものかと決意する。

シンプルなのは、私が手を離しさえしなければいいということだ。
バーを掴んでいるのは私の手で、その手に指令を与えているのは私の頭だ。
だからどんなに強い力で引っ張られても、離さないったら離さない。

外的要素を一切排除した無茶苦茶なロジックだが、とにもかくにもそういう気合でポジションをとる。
ボートが加速して、ロープがまっすぐに張り、板の底にGがかかる。

後に友人が「何かが憑いたみたいだった」と言ったように、少々堪えて「あ、立てるかも」と思うまま、あれよあれよと立ち上がり、気がつけばどうにか、波を滑っていた。
我ながら、拍子抜けするほどあっけなく。

板越しの慣れない感覚が、しゅうっという飛沫を上げて、心をくすぐる。
おぼつかない板、向かい風、小さな進歩にこみ上げる喜び。

そう長くはない時間の後に水に落ち、ボートが戻ってくるまでの束の間、ライフベストに身を任せ、ぼんやりぷかぷか漂って待つ。
一月前に頂を目指した富士を仰ぎ、普段より多少高めという波に寝ころびて、山梨の空に吸はれし三十二の心。

秋風に和らぎ始めた陽射が、啄木の句など思い起こさせる。
啄木よりは随分年増だが、教室を抜け出したような開放感はあながち違わない。

最後の最後に一度きり姿勢が作れただけだったが、何かがつかめたような気がし、この感覚を忘れたくなくて、帰り際、こう提案した。
「今シーズン、もう一回くらい行きたいね」

2週間後、事実、それは実行された。
ほんのしばらくの間に肌寒さを感じるまでに季節が移った山中湖で二度目のウェイクボードを楽しんだのだ。
「楽しんだ」と表現できるのは、前回最後の感覚がよい具合に継続し、今回は最初から立ち上がり、簡単には転ばなくなったからだ。

何がどうなったかという理屈は分からないが、とにかく苦心した前回を忘れるほどスムーズに波に乗れる。
コツをつかめば無駄に腕を使うこともなく、おかしなところが痛くなりもしない。
上級者のアドバイスをもらって、意識をして板の角度を変え、引き波を越えることにも成功した。

来シーズンが楽しみになる。

山中湖ICのスロープを上っていく角度は、夕空への発射台のようだ。
名残惜しさが濡れた後ろ髪を引っ張る。

ふとサンダル履きの足を見れば、日焼けのあと。
今年の夏が焦げた色で残る。

行きも帰りも運転は人任せで、申し訳ないなと思いながら抗し難い睡魔に襲われる。

目を閉じれば、再び空に吸い込まれていくような満たされた気持ち。
今日はいっぱい遊んだ。
明日から仕事だ。

働くと遊ぶの両輪によって、毎日が進む。人生が進む。
活力というのは、こういうことを言うんだな。

きちんと、自分で、ひとつひとつ完結していく毎日。
世の中にはいろんなかたちの幸せがあるし、何が最終形なのか知っているわけではないけれど、ただ、今私はきっと幸せの瞬間にいる。
特別なことなど何もないけれど、ただこの気持ちの呼び名は、そう言うに違いない。


  不来方のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心
                 石川啄木


一握の砂 他(1910年・日)
作:石川啄木


■2007/9/29投稿の記事
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