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The one where the Indians-ライ麦畑でつかまえて-

ニューヨークでは、「それ何日間で?」と訊かれるほど多くの予定をこなした。
これは私の旅のスタイルとはちょっと違うのだけれど、なにせ短い日程で、当初思っていたよりずっと多くのやりたいことが見つかったので、結果的に相当詰め込み型の強行スケジュールとなってしまったのだ。

世界最高峰のコレクションが収められた数々のMuseumはニューヨーク観光の目玉の一つだが、ただ、Museumめぐりには時間がかかることが難点だ。
広い館内を観てまわるだけで数時間必要だし、入館するまでの長い行列も覚悟しなければならない。
友人とも相談した結果、他にもやりたいことが盛りだくさんのこの旅で、Museumは一つに絞ろうと決めた。

普通の観光客なら、MOMAかメトロポリタンを選ぶことはよく知っている。
けれど、少なくとも私はその点でほとんど迷うことをしなかった。
私たちが選んだのは、American Museum of Natural History、セントラルパークの西にあるアメリカ自然史博物館だった。
そんな名前聞いたことないという人もいるだろうが、私にとっては「ニューヨークと言えば自然史博物館」というくらい偉大な存在で、どうしても外せない重要な目的地だった。

とはいえ、同行した友人が、もっと有名なところに行きたいと言う可能性は十分にあったし、そのときは別行動にしてもいいと思っていた。
そう思いながらガイドブックの写真を見せて「私はここに行きたいんだけど、どう?」と訊くと、意外にも友人は言った。
「私、恐竜好きだし。結構、それ行きたいかも」
開いたページには、巨大な恐竜の化石やシロナガスクジラの実物大模型の写真が載っていて、彼女が「ヨーロッパの絵画をアメリカで観てもしょうがないっていうのもあるよね」という、それはそれで説得力のある見解をもっていたことも手伝って、結論は予想以上に早く出たのだ。

私がこの自然史博物館にこだわった理由は、ニューヨーク生まれの作家サリンジャーによる著書「ライ麦畑でつかまえて」にある。
それは私が主人公ホールデン・コールフィールドと同じ16歳のとき読んだ小説で、作中ホールデンはセントラルパークで10歳の妹フィービーを探し、彼女がMuseumにいるんじゃないかとフィービーの友だちの女の子からきく。

"Which museum?"
"I don't know. The museum"
"I know, but the one where the pictures are, or the one where the Indians are?"
"The one where the Indians."

インディアンの人形が展示されているMuseumこそがAmerican Museum of Natural Historyであって、ホールデンは、小学生のときしょっちゅう土曜日の課外授業で先生にそこに連れてこられたから、あのMuseumのことなら隅から隅まで知っているのだと言っている。
私はそのくだりを読んでから、いつかニューヨークに行ったら、そのMuseumを訪れてみたいと思っていた。
セントラルパークから道をはさんだ西側に立つ石造の建物、小さな子どもたちが手をつないで先生に引率されて列をなし、インディアンの生活をうかがい知る展示物やロッキー山脈に棲む熊の剥製を見学して歩く姿を想像した。
のどかで平和で、とてもかわいらしい様子を想像していた。

ホールデン・コールフィールドは、ペンシルバニアの全寮制私立高校に通っていたが、そこを退学になって実家に戻ってくることになる。
「ライ麦畑でつかまえて」は、その道中、数日間の出来事をホールデンの独白というスタイルで描いている。
と言っても、事件らしい事件は何一つ起きないし、ホールデンの言葉遣いにしても、愚痴っぽさや理屈っぽさにしても、一般的な小説と比べたら全く「イカレタ」テンションの物語なのだ。

私がそれを読んだのは、16歳のときたまたま知り合った21歳の男の人が、好きな本だと薦めてくれたからだ。
当時、そのくらいの年齢の人と知り合うことはほとんどなかったし、21歳の「完全に大人の人」とほとんど友達みたいに会話をするなんておそらく初めてのことだった。
確かその時、私がハンチング帽を逆向きにかぶっていて(1992年当時そういうのが流行していた)、その人がそれを見て教えてくれたのだ。
ホールデンは、ハンチングをそうやって逆向きにかぶるんだよ、と。

「ライ麦畑につかまえて」について、様々な角度で解釈や分析がされたケースはゴマンとある。
けれど、正直言って私は、あの小説の何がどういいかとか、具体的にどんなメッセージがこめられているかとか、そのメッセージに共感できるかどうかということも含めて、うまく言い表そうという気分になれない。
私が感じたのは、若さの痛みと呼ぶべきようなもの、ちょっとした気恥ずかしさ、ただそれだけだった。
そのくせに、強烈な印象に残った。
あれほど細かくディティールを記憶している小説は他にない。
そんな経緯で、ウディ・アレンの映画と並んで「ライ麦畑につかまえて」は、私にとってのニューヨークのイメージに大きな影響を与えている。

自然史博物館の正面玄関を入ってすぐのホールは天井が途方もなく高く、その途方もなく高い天井にほとんどぶつかりそうに背の高いバロサウルスが迫力をもって構えている。
その躍動感たるや実に素晴らしい。
ほれぼれと小一時間くらい眺めていられそうだ。
恐竜好きの友人はそれを見て大興奮。
私はというと、あらかじめの思惑通り、館内に溢れる天使のような子どもたちのかわいらしさに大興奮だった。
(私は小さな子どもを眺めるのが「ものすごく」好きなのだ)

寒い日だったが、外はよく晴れていた。
けれどそんな日でも、歴史のシミに赤茶けた広いホールに響く、実際よりも遠い場所から届くかのようなざわつきのこだまと、天井に近い位置から差し込む淡い光の様子が、なぜか通り雨を想像させた。
ここだけが雨を逃れられる唯一の場所だと、そう錯覚させるような音響と光の具合だ。
そういえば、映画「マンハッタン」でウディ・アレンとダイアン・キートンはこの場所へ雨宿りに駆け込む。

そう、サリンジャーはまさに、この場所をもってそう著している。


ライ麦畑でつかまえて The Catcher in the Rye(1951年・米)
著:J.D.サリンジャー
訳:野崎孝
出版:白水社

■2006/11/6投稿の記事
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