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奈良散策-リトル・ブッダ-

奈良を訪れたのは3回目のことだ。
小学校の修学旅行が初めてのときで、それから5年ほど前だったか、名古屋で知り合った友人が奈良の出身で、帰省の折に遊びにおいでよと言われて立ち寄ったのが二度目だった。

今回は、両親が年末にどこか行こうと言い出して、どこにするどこにすると、ああだこうだ言っていた末に、どういうわけか結局決まった旅先である。
京都や奈良というのは案外と年末年始は空いているものだと、京都の大学を出た会社のマネージャーが言っていた。
まさにそういう流れに乗った。

そうはいっても、三が日は地元民を中心とした初詣客で賑わうのだろうが、年末となっては閑散としている。
どの寺も神社も既に正月を迎える準備を終えて、門松が置かれ、「謹賀新年」の札が掲げられ、初詣の混雑に備えた順路案内の立て看板まである。

そんな年の瀬の、奈良。

薬師寺でおみくじを引くと、書いてあることが、ぴたりと今の私を言い当てていて、仏様の彗眼に恐れおののく。
「解釈によっては」どころではない。
おみくじの文言が何十種類あるのか知らないが、よくもまあというほど、かなり具体的に言い当ててある。

総論としては「末吉」。
私は決して信心深い人間ではないが、「サイン」のようなものが人生には時折あるのだとすれば、これは少し心してみようと思う。

春日大社へと歩いてく道々、おなじみの鹿が顔を出す。
前に来たとき、友人が「奈良公園の鹿はせんべいをやるとちゃんとお辞儀をする」と教えてくれた。
これが確かに本当で、彼らは餌を掲げると、頭をちょこっとうなづかせるように、かわいらしいお辞儀をするのだ。

具体的な話はもう大方忘れてしまったが、その友人は、この土地の鹿がどれほど訓練されているかを教えてくれた。
春日大社の参道を歩きながら、参道は産道であり、鳥居をくぐれば母の胎内に入るのであるといったウンチクを語っていた。
友人のウンチクや小言の多さは相変わらずだし、彼はまだ名古屋に暮らしているが、つい先日、結婚をした。
5年近くも経てば、いろんなことがある。

二月堂から東大寺へと下りていく。
この界隈は散策するのに、よい道だと思う。

東大寺の大仏と言えば、鼻の穴だ。
柱の一つに穴が開けてあり、これが大仏の鼻の穴と同じ大きさなのだという。

私が修学旅行で奈良へ向かうとき、父は鼻の穴の話をした。
父が小学生のとき、これも修学旅行でその穴をくぐったと言うのだ。
穴をくぐるために列をなし、そのせいで集合時間に遅れてしまって怒られたという思い出。

その話を聞いた私も、この穴をくぐるのを楽しみにした。
小学校6年生のとき。

今日はもっと小さな子どもたちが腹ばいになって次々と穴をくぐり、その親たちは穴の出口でカメラを構えて、そのあどけない姿を写真におさめていた。
この狭い穴をくぐった子どもが過去に何百万人いるか分からないが、その子どもたちも皆、大人になってカメラを構える側にまわる。

私がいつか子どもに恵まれたら、お母さんもおじいちゃんもこの穴をくぐったと教えてやるだろう。
それは、父がくぐってから50年が過ぎている頃で、それでも紛れもなく、おんなじ穴なのだ。

穴をくぐる前と、くぐった後と。

時は流れていく。
50年も経てば、いろんなことがある。

大人になって、年をとって、友人も、私も父も母も、まだ見ぬ子どもも、孫たちも。
大仏様は全てを、知り渡しているのだろうか。

最後まで、知り渡しているのだろうか。

私は昔、近所のお寺の奥さんにピアノを習いに行っていた。
そこで釈迦の一生に関する漫画を読んだ。

10年以上前、ベルトルッチの「リトル・ブッダ」という映画を観た。
釈迦の一生を、幻想的に紐解く美しい映画。

静かで、情熱的な、輪廻の不思議を解く映画。

私は信心深くはない。
それでも、そこに想い馳せないでいられない人の心については、理解できる。

苦行を経てまで得たかった悟りとは何か。
人生は無常で、各々の胸において切ない。
それでも人は生きていく。
生きていくからそのために、きっと必要だったのだ。

生きることを救い上げる手を、人は求める切ない存在なのだ。

リトル・ブッダ Little Buddha(1993年・英/仏)
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
出演:アレックス・ウィーゼンダンガー、キアヌ・リーヴス、ブリジット・フォンダ他

■2005/12/30投稿の記事
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