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キャンディードロップス-エターナル・サンシャイン-

初めて保育園に行った日、4歳の私と2歳の弟は、小さな遊戯場を囲むセメントの段差にかわいらしく座っていた。
「かわいらしく」というのは、自覚していたわけじゃなく、今の私が振り返れば、さぞかしそれはかわらしい様子だったろうと思うからだ。

ほとんど人生最古の記憶とも言えるその光景の輪郭は、意外なほどはっきりしている。
遊戯場には大人も子どもも誰一人いなかった。
私たちは紺色のスモックと白いラインの入った半ズボンをはいていた。
ひざこぞうを抱えるように、ふたりで寄りそって座っていた。

入園式の次の日で、どの教室に入ればいいのか分からなかったのだ。
昔から放任きわまりなかった母親は、園の門まで私たちを送った後、すぐに帰ってしまった。
他の子どもたちはきちんと正しい教室に入っていったのに。

取り残された私たちは、心細さいっぱいだった。
弟は本当に小さくて、心細さという感情を知らなかったかもしれないけれど、さも心細そうなふりだけはしていた。
肩をすくめて、地面に視線を落としていた。
私は弟の手のひらを握っていた。

教室の中では、もう授業のようなものが始まっていた。
私たちは、黙って座っていた。
そうするほか、どうしていいのか分からなかった。
でも泣いたり、声を上げたりはしなかった。
なんとなく、弟を守らなければいけないような、使命感があった気がする。

「どないしたんや?」
そんな私たちに、背後からおばさんが声をかけてくれた。
「どこ行ったらええか分からへんねん」
助けを得たというより、正当な権利の主張のように、私は堂々と答えた。

「堂々と」、していたと思う。

おばさんは私たちの左胸についた名札を見て、私のそれが赤いチューリップ型で、弟のそれが桃色のチューリップ型であると確認すると、私を「きく組」の教室へ、弟を「もも組」の教室へ連れて行ってくれた。
後で分かったことだけれど、そのおばさんは保育園の給食のおばさんで、その後仲良しになったサッちゃんのおばあちゃんだった。

その記憶は、そこまで。

ビデオテープに収められた映像のように、遊戯場の段差から教室へ行くところまでの、その様子だけが記憶に残っている。
映像よりも前のことや、後のことは思い出せない。

そんな断片が、人生にはちりばめられている。
バラバラになった記憶のかけらがいっしょくたになって、ドロップス缶に詰め込まれている。

キラキラ、かわいらしいドロップス。
ピカピカ、切ないドロップス。

「恋の痛みを知るすべての人へ。」
映画「エターナル・サンシャイン」のキャッチコピーは、そんなふうだ。

恋が終わったとき、記憶喪失になりたいと本気で思った人は少なくないだろう。
それは別れを告げる方でも告げられる方でも、同じこと。

悲しい気持ちや、虚しい気持ちを、記憶と一緒に消してしまいたいと思う。
こんな恋は、なかったことにしたい。
求め続けてしまう想いから、解放されたい。
最初から、出逢わなければよかった。

そんなふうに過去を否定して、懸命に自分を救おうとするだろう。
それは、体の中の抗体が花粉と闘うのと同じだ。
人の自然な抵抗力の賜物。

そして、クレメンタインは記憶を消す。
恋人が自分の記憶を消したことを知って、後を追うように、ジョエルもクレメンタインの記憶を消そうとする。

「記憶除去手術」という架空のサービスが、この映画のキーになる。

それだけ聞いて単純な話かと思ったら、意外なまでに作りこまれた美しい物語だった。
設定の奇抜さよりも、描写の巧妙さが切なさを誘う。

現実と妄想と、記憶と感情。
過去、現在。思い出、希望。

時間軸が様々に交錯する、心の冒険。

サルベージ。
貝殻拾い。

記憶のかけらに、針で縫い目をつけていく。
ゆっくりと、編みこむ。
ちりぢりの、ばらばらの。

そして、記憶は容赦なく消される。

甘いドロップスを、取り上げられた子ども。

ジェニファー・ロペス主演の「セル」という映画があって、犯罪者の精神の中に入り込んでいくという設定の映像美が卓抜した作品だ。
美しい映画だけれど、私が違和感を覚えたのは、「セル」における精神世界は、犯罪者のそれとは言え、おどろおどろしく、現実からは大きく乖離した悪夢のようだった。

それと比べると、「エターナル・サンシャイン」が描くのは、等身大で親しみ深い心の世界のように思える。
私の心の中も、きっとジョエルのと同じ風な気がする。

あるときはドロップが熱に溶け出して、他のドロップとくっついたりする。
缶の底にもくっついたりする。
振るとカラカラ音がしたり、まるい口から取り出しにくかったりする。

一番切なくなったのは、幼い頃のジョエルが、友達にいじめられているところを、手を引っ張って連れ出してくれた強気なカウボーイハットの女の子の記憶。
次の瞬間、大人のジョエルとカウボーイハットのクレメンタインになっていた。
うなだれるジョエルの手を握ったままクレメンタインが、いじめっ子を振り返って怒っている。

ジョエルを救い出したのは、本当はクレメンタインじゃない。
でも、それはクレメンタイン。

缶の底にくっついた記憶が、愛する人との記憶に結びついてしまって、こんがらがるけど、想いがさらに強くなる。
なんだかとても、よく分かる。

本来は無関係なはずのものも、もう彼女は彼の一部だから、だから全ての記憶はひとりよがりに共有されてしまう。

切ない。

どこかへたどり着くためだけに、生きているわけじゃないと思う。
最初から結末が見えていそうな恋だとしても、だからといって価値がないなんて、本当は思えないはずだ。
恋は瞬間だし、人生は瞬間だし、あらゆるものは瞬間の連続体。

今、愛を感じるなら、その愛を離してはいけない。

たとえそれがいつか想い出になっても、ありあまる記憶のかけらが残るだろう。
キラキラと、甘酸っぱく、切ない一生を彩るだろう。


エターナル・サンシャイン Eternal Sunshine of the Spotless Mind(2004年・米)
監督:ミシェル・ゴンドリー
出演:ジム・キャリー、ケイト・ウィンスレット、キルスティン・ダンスト他

■2005/4/10投稿の記事
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