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振られる側の言い分-スウィート・ノベンバー

オフィスの窓から外を眺めたら、やわらかい秋の日差しがそこここに溢れていた。都会の真ん中に優雅な面積を占めている、アメリカ大使館宿舎の木々も紅葉している。

11月も終わろうとしている。

11月の映画といえば、これを置いて他にない。
「スウィート・ノベンバー」。
タイトルからして、そのままだけど。

かなり好みの分かれる映画だと思う。
好きでないと言うケースは、おそらく、「ラブストーリーとはこうあるべき」の枠にこの作品が当てはまらないからだろう。
徹頭徹尾ラブストーリーのトーンなのに、観終わった後の、あの感覚。

普通、ラブストーリーを観れば、「恋がしたい!」と思うもの。
そのハッピーな気持ち、そのうきうきする気持ち、その切ない気持ちを映画の中に投影することを期待するところから始まる。

しかし、この映画。
タイトルはスウィートだが、スウィートな気持ちを呼び起こしてはくれない。

日常のちょっとした偶然で、気になる異性に出逢う。
第一印象は最悪だったりもする。
偶然がまた重なる。
錯覚だとしても、何かしら、運命のようなものを感じ始める。

ゲームのように駆け引く。
気を引いてみたり、気をもんでみたりする。
近づいたり、離れたりする。

やがて響きあう。
指先がからむ。

そこから先も色々あるだろうけれど、おおむねラブストーリー、そして実際の恋はそんなステップを踏襲する。
「スウィート・ノベンバー」もそう変わらない。
ある意味では、浮気や横恋慕や、嫉妬や周囲の反対といった、映画にありがちな障害はほとんど存在せず、あくまで男女の心のコミュニケーションだけを描いていく。

自分は相手を愛しているか、愛していないか。
相手は自分を愛しているか、愛していないか。

ただただ、その確認の繰り返し。

ただ違うのは、1ヶ月間、限定の恋だということ。
11月が終わったら、ふたりは他人に戻る。

その約束の中で、紡がれる関係。
やわらかく、狂おしい関係。

私はこの映画を観終えたとき、そのリアリティに打ちのめされた。
別の見方から、むしろ「現実感がない」という解釈をする人もいるが、私はこれがリアルな恋の姿だと思う。

恋人が去っていくのに必然性がない、理由がないという解釈は、あくまでも振られる側の言い分で、去っていく方には十分に必然性も理由もあるのだ。
仮に言葉にできなくても、ミルクがこぼれてしまったこと自体は事実で、それは決して取り戻すことができない。

だから。

だから、目隠しのうちに消えていく美しい恋人を、追ってはいけない。

その想い出を振り返り、あれは確かに恋であったと、あと一月残された今年に、自分を慰めてみる、「スウィート・ノベンバー」はそういう映画。
理解し難い一方的でひどい振られ方をした主人公が、全てを美化しておさまりをつけようとしている。

観客は無意識に主人公に同化している。
だから、恋人が去った後には、取り残された気持ちになって、そんな理不尽な、と怒りも湧く。
けれど、実際の恋というのはそんなものなのだ。
終わりのかたちがどんなふうになっても、そこまでの道のりが変わるわけではない。
それを認めても、否定しても、残りの時間は過ぎていく。

大切な恋が終わったとき、すぐさま「恋がしたい!」と思う人は少ない。
誰かしらのぬくもりが欲しい、という人恋しさとは違って。

そのとき人は、きっと「恋はしばらくいいかな」というような、苦い感情をおぼえるだろう。
「スウィート・ノベンバー」を観終わった後の感覚というのは、リアルな恋を一つ終えたときのようなしっとりとした疲労感に近い。

映画の中で、1か月分の恋をする。
サンフランシスコの街並が、自然と冬を迎えていく。

疲労感をおぼえても、決して恋を嫌いになれない。
もう二度としない、なんて思えない。

だからこそ、11月は甘い記憶になる。


スウィート・ノベンバー Sweet November(2001年・米)
監督:パット・オコナー
出演:キアヌ・リーブス、シャーリーズ・セロン、ジェイソン・アイサックス他

■2004/11/26投稿の記事
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