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総論として幸せ-風になりたい-

一週間、相当に忙しい日々が続いて、ブログの更新がままならなかった。
最近、仕事でのプレッシャーの種類が少し変わってきたのがよく分かる。
さすがに社会人も7年目で、いい加減、立場も変わり始める。

新入社員で右も左も分からなかった頃、ちょうど7年目の先輩がいて、信じられないほど優秀な人に見えた。
実際、とても優秀な人だったのだろうけれど、彼はまずもって立派で頼れる大人の存在として映った。

けれど、時は移る。
新入社員に映る私の姿を意識すると、やたら緊張する。

私は来週、ひとつ年をとる。

幼い頃はあれほど大切だった誕生日を迎える瞬間というものを、年々無意識に過ごすようになった。
今年などは、ひどいことに自分の誕生日を忘れそうになっている。

もちろん、心のこもったお祝いをしてもらったこともあるし、大好きな人と過ごした思い出もある。
それはひとりにひとつずつしかない、大切な日、特別な日のはず。

でも、実際には「ああそうだった」と振り返るくらいの、ちょっとした確認の日になってきている気はする。
まして心待ちにする類のものではない。

つきつめて考えれば本来はそんなもので、誕生日を彩るイベントやプレゼントやメッセージといった付随的な存在が、ただそれを特別らしきものに変えているに過ぎない。
まあ、そう言ってしまえば、あらゆる記念日というものは、多分に人工的なものであって、それをどう楽しむかという積極性で意味づけが大いに異なってくる。

だから、「楽しむ」というのは文化なんじゃないかと思う。
人のもつ、偉大な才能。

小学4年生くらいまで、私の誕生日の前日には、必ず毎年うちの電話が鳴った。
クラスメイトのお母さんから電話があるのだ。
うちの母が、電話の向こうの友達の母親と話している。

母は申し訳なさそうなトーンで応対し、やがて受話器を置いて、私のところへ歩み寄ってくる。
彼女は少し、怒っている。
私はうつむく。

「なんで嘘つくの」

私は何も答えられない。

「断ったからな」

母が怒っているのは、私が友だちに嘘をついたからだ。
お誕生会をやるから遊びに来てね、と。

それは、嘘。

友だちの誕生会に呼ばれていくことは何度もあった。
お母さんの料理と、ジュースやコーラと、「○○ちゃん、おたんじょうびおめでとう」と書かれたチョコレートの板がのっかった生クリームのケーキ。
いつもよりほんのちょっとよそ行きの服を着た主役と、彼女自慢のピアノ演奏。
プレゼントのために、かわいらしいイラストの描かれたレターセットを持参する。

お誕生会は、幸せと豊かさの象徴のようだった。
もちろん子どもが心待ちにするくらいの価値がある。

でも、私はお誕生会をやってもらったことがない。

誕生会に呼んでくれた友人は、「yukoちゃんの誕生会はいつやるの?」とたずねる。
そして私は嘘をつく。

いや、嘘のつもりはない。
もしかしたら今年こそは、お母さんが誕生会をやりましょうと言ってくれるのではないか、友だちを呼んでいいよと言ってくれて、ケーキや料理を用意してくれるのではないか。
毎回、私はそう思うのだ。

だから、その前日までじっと待つわけだけれど、一度として母親がそう言い出したことはなく、「何時におうかがいしたらいいですか?」という友人の母親からの電話で、私の淡い期待が嘘へと結ぶ。

どうして、ただ素直に「お母さん、誕生日会をやって」と言えなかったのだろう。
そう言えばいいのに、と思う人もいるだろう。

でも、言えなかった。
自分の誕生会をやって欲しいなんて、言ってはいけないことのような気がした。
もっとちゃんとしたお弁当にしてよ、と言ってはいけないような気がしたように。

私自身だけの願望を要求することは、憚られる習慣だった。
そういえば、「あれが欲しい」とおもちゃ売り場でダダをこねたこともない。

だのに、誕生会についてだけは、顛末の見えている嘘をつき、みじめな気持ちになる。
毎年、毎年。

友だちを大勢呼ぶ誕生会はなかったけれど、母は誕生日用のケーキは買ってきた。
そうして家族だけで、それを祝った。
ケーキに挿したろうそくに火を点し、暗がりを作ってそれを吹き消す、その作業を楽しむだけのものだったけれど。

両親と弟2人と、祖父母とひいおばあちゃん、という8人構成の大家族だったので、十分賑やかな食卓だった。
それももちろん、幸せだった。

大人になり、私の初任給で親と旅行にでかけたとき、私はふと思い出して言ってみた。
新緑の光がウィンドウガラスに反射する、5月のことだ。
運転席と助手席の間を後部座席から乗りだすようにして、「なあ」と切り出す。

「なんで誕生会やってくれへんかったん?わたし、やって欲しかったのに」

母は言った。
「そんな余裕なかったんや。家も狭いし、家族も多いし、人なんか呼ばれへんかった」

それは少しショックな言葉だった。
うちは決して金持ちじゃなかったし、当時の家は確かに狭くて古かったけれど、友だちを呼べない理由にはならない気もした。
それでも、母親の言うことが分かる。

「そら、誕生会くらい、やろうと思たらできたで。それができんほど金がなかったわけやないんや。そやけど、精神的なゆとりがなかった。お父さんの世代では、うちはそこまで実現できんかった」
父がそう付け加えた。

父が言うには、豊かさというのは、まずは経済的なゆとり、そしてそれがある上での精神的なゆとり。
マズローの欲求段階説のようなもので、人は生理欲求や安全欲求が満たされた上でしか、自我や自己実現の欲求を持つことができない。
言い換えれば、うちの家庭は、当時、かろうじて安全欲求(安全的に生活を営んでいく欲求)を得た状況で、ちょうど親和欲求を強く実現したいとする時期だったのかもしれない。
つまり、家族での結束がより強くなる段階。

欲求段階説を持ち出すのは、生活が進歩を遂げているからに他ならない。(時として豊かさの飽和の下に欲求は多様化し、一列には進化しないため)
父が子どもの頃は戦後の貧困のさなかにあり、当時は貧しい家庭にありがちだった親戚みんなが一つ屋根の下、身を寄せ合って暮らす日々だった。
家族は裕に10人を超えていて、そのくせ家は2間の平屋建てだった。
子どもたちはアルバイトをして家計を助け、月末には借金取りが来た。
父は高校に進学することを許されなかったし、まして誕生日を祝う習慣など、あるはずもなかった。

そんな話をよく聞いていた。

日本は、戦後数十年でめまぐるしく進歩を遂げている。
飛躍的に豊かになり、物を得て今は心の豊かさを求めていく段階にある。

私の家族は、そういった日本の成長をそのまま投射したようなものだ。

父は言った。
「お前の子どもには誕生会をやってやったらええ。お父さんの時代にはそんなゆとりがなかったけど、お前の時代にはそういうゆとりをもったらええ。そうやって家族は進歩するんや」

こういった話題に限らず、父はそういう言い方をよくする。

家族は進歩する。

世代を挟んで、前の世代にできなかったことをする。
自分の世代でどこまで進めるか、後の世代がどこまで進めるか。

それぞれの世代は、限られた時間の中で、与えられたスタートラインから前へ進む。
私のスタートラインは、両親が与えてくれた。

それは、ケーキを買って家族で食べるところは越えていて、でも誕生会を開くには少し足りなかったんだろう。

年をとって大人になって、それぞれに努力して幸せをつかむのが人生だとすれば、その流れを上回る「大いなる流れ」というものもある。
それは、宇宙や自然の営みであったり、人類や民族や血縁の営みであったり、様々なレベルで脈々と続くものだ。

時折、視点を引いて眺めてみると、私たちが受け継ぎ、次につなぐものが確かにあることに気づく。
それを生の意義のようにしてストイックに生きていくのが本来というわけではないけれど、本人が意図しようともせずとも、大いなる流れの一部に自らがあることは誰も消しようのない事実なのだから。

そんなセンチメントはよいとして、ともかく私は自分の子どもに楽しい誕生会を開いてやろうと思うし、両親にもこれから多くのことを楽しんでほしいと思う。

「楽しむ」が文化だとすると、それは文化の進歩であり、私たちが文化的に進歩していくということなんだと思う。

贈ろうと思った歌があったけど、慌てて買ったアルバムにお目当ての曲がなかったと頭をかきながら、ある人がくれたCD。
人には機微を汲み取る、イマジネーションがあるでしょう?
だから、もらい損ねた歌を思い描きながら、「総論としての幸せ」を楽しんでみる。

風になりたい(1995年)
歌:THE BOOM
曲・詞:宮沢和史

■2005/5/28投稿の記事
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