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きっと見ている-涙そうそう-

この季節になると、いいえ、季節に関わらず折に触れて、私には思い出す人がいる。
もしかしたら、常に私の傍らに、ともにある人かもしれない。

4年前の11月22日、友人O君から電話が入った。
私は会社のディーラー研修のため、ちょうど10月の初めから3ヶ月間、実家に帰っていた。

「どしたの、どしたの?」
能天気にたずねる私。
O君の声は心なしか震えていただろうか。
「Nさんが亡くなったんだ」

一瞬、嘘だと思った。
NさんとO君がまた悪だくみをして、私を驚かせようとしているのだと思った。
二人で、Nさんが死んだって言ったら、私がどんな反応をするだろうといたずらしているんだ。

「冗談でしょ?」
確か私はそう言ったと思う。
「ほんとだよ。Nさんが亡くなったんだ」
O君は大真面目だった。

嘘では、なかった。

Nさんに初めて会ったのは、大学4年の11月だった。
ゼミ仲間だったO君が、とあるマーケティング会社でアルバイトがあるからと、誘ってくれた。
ちょうどその頃、ゲーム会社のバイトが発売前の追い込み時期にあたり、徹夜するほど私の毎日は忙しかった。
けれど当時の私と言ったら、あまりにも元気だったというか、義理堅かったというか、好奇心が強かったというか、少なくとも誘われた仕事を断るなんてもっての外というポリシーをもっていて、その日も仕事で徹夜明けのまま、朦朧としながら早朝の麹町に立っていた。

地下鉄の出口を地上に出たところで、私は何か鼻歌を口ずさみながら待っていた気がする。
人気のない朝の街に「ティファニーで朝食を」でオードリーがクロワッサンを食べているイメージがよぎったから、そのとき口ずさんだのは「Moon river」だったかもしれない。

現れたO君に連れられて雑居ビルの何階だかに上がると、熊のようなおじさんが迎え入れた。
O君はおじさんと親しげに言葉を交わし、私をおじさんに紹介した。
「どうも。こんにちは」

おじさん。大学生だった私には十分、おじさんだった。
年齢は分からないけど、自分より少なくとも10歳は年上に見えた。

おじさんは、豪快に笑う人だった。
屈託のない顔でガハハハと笑う人だった。
名前はNさんと言った。

私たちは3人でブレストをした。
テーマは、なんだっただろう・・・もう忘れた。
寝不足だった私は、ちょっとハイテンションで、ああでもないこうでもないと好き勝手な話をした気がする。
あれが本当にアルバイトだったんだろうか。

Nさんは、私たちに昼食をごちそうしてくれた。
ビルの近所の定食屋だった。

私のゲーム会社でのアルバイトの話や、その夏に行ってきたモンゴル旅行の話を、Nさんはいたく気に入ったようで、私のことを「面白い、面白い」と言ってくれた。
「君は話していると理系みたいだが、文学部出身の法学部生というのが、また面白い」と笑った。
よし、これから君にいろいろ面白い人を紹介してやろう、Nさんはそう言った。

最初にNさんが紹介してくれた人は、彼と同じくらいの年齢の電通のYさんだった。
クリスマス直前の寒い夜、三軒茶屋の狭い焼き鳥屋の隅っこで、鳥なべをつついた。
Nさんが紹介してくれたその人は、ちょっとNさんに似た雰囲気のある人だった。

その飲み会の最後に酔っ払ったNさんは、「明日から東北へ夜行列車で旅行するんだ。君も来るか?」と言った。
「何言ってるんですか。私は実家に帰るんで」
酔っ払いおじさんの話を、笑って聞き流したのを思い出す。

二人目に紹介してくれたのは、私より2つ年上の男性だった。
私が就職して東京を離れた後のことで、Nさんが出張で名古屋を訪れるのにあわせて食事をしようということになり、その席へ彼を呼んだのだ。
彼は、中堅印刷会社の御曹司だった。
彼も私もNさんを慕っていた。
あれは、確かバレンタインデーの日で、私はその夜の帰りがけ、Nさんにチョコレートを渡した。

東京に出張に行くときには、よくNさんに連絡をして、色々とごちそうしてもらった。
「俺は洋食は苦手なんだ」というNさんが連れて行ってくれるのは、お寿司屋さんや中華なんかが多かった。
私は社会人になりたての荒っぽい若さで、好き勝手なことをしゃべっていた。
Nさんは、それを「面白いなー、君は」といつも笑って聞いていた。

そう、Nさんはあまり自分のことを話さなかった。
出身や大学や、転職する前の仕事のことを、こちらからいくら質問しても「追々ね」と言って取りあってくれなかった。
私以上にNさんと親しかったO君でさえ、そういったことについては何も知らなかった。
なぜそんなに秘密にするのか、よくO君と「なんでだろうね?」と話したものだ。

時々、Nさんから「いいものを見つけた」と書き添えた贈り物が名古屋の住所に届いた。
安藤忠雄について特集した今は亡き雑誌「太陽」、宮大工のおじいさんを追ったフォトグラフ集、そしてBEGINの「涙そうそう」が収められたCDアルバム「ビギンの島唄-オモトタケオ」。
夏川りみによって歌われて大ヒットする2年ほど前のことだ。

「涙そうそう」はもともと、森山良子作詞、BEGIN作曲。
沖縄出身のBEGINによる調べは、女声によるものとはまた異なる、しっとりと懐かしい響きがある。
そのCDは何度も聴いた。
いい曲だな、いい声だな、と思いながら、何度も聴いた。
けれど不思議なほど歌詞に注意はしなかった。
どちらかといえば、CDジャケットに映ったBIGINのボーカルがNさんに似ていることの方が気になっていた。

Nさんに最後に会ったのは、亡くなる半年くらい前、新宿だった。
「ワハハ本舗の舞台のチケット、手に入れたから観に行こう」とメールがもらって、有給休暇をとって東京まででかけた。
実はその前年のクリスマス・イヴに同様の誘いをもらっていたのだけれど、さすがにクリスマスはまずいだろう、とお断りしたのだ。
「Nさん、大事な日に私を誘っている場合ではないですよ」
第一、平日で休みがとれなかった。
せっかく誘ってもらったのに申し訳ない気持ちもあったので、二度目に誘われたときはお応えしようと思った。
いつもお世話になっているから。
でも、それ以上の意味はない。

Nさんの方に何か意図があったかという点については、私は見て見ぬふりをした。
私が「いいですよ。行きましょう」と送ったメールに、Nさんが返した言葉を、私は直視できずに瞬間的に削除した。

お願いだから、そんなこと、言わないでください。

新宿のシアターアップルで舞台を観た。
ショーは明るく笑いにあふれていた。
そのときの会場の雰囲気、舞台までの距離、暗さ、明るさ、ざわめきをよく憶えている。

私は半分くらい怒っていた。
Nさんは私にとって大切な、尊敬すべき人であり、それ以上にも以下にもなって欲しくなかった。
だからその日のNさんの言動に、私はいらだちを隠せなかった。

わがままで都合が良すぎるだろうか。
でも、そうすることしかできなかった。

なんとなく、ぎこちないかたちで別れた。
メールはその後も何度か交わした。

9月の終わり、11月に名古屋に行くからそちらで飲もうとお誘いがあった。
私は10月から3ヶ月間、研修で実家の兵庫に帰る予定だったので、残念ながら名古屋にはいません、と返信した。
12月に神戸に行く用事もあるから、と言われて、研修中の予定は分からないからまたの機会にしましょうと応えた。
本意ではなかったものの、私は意図的にNさんを避けていたと思う。

けれど、Nさんは結局神戸に来ることさえなく、突然いなくなった。
普段から美味しいものばかり食べて、飲んで、働きすぎだった彼は、脳梗塞による急逝だった。

Nさんのお葬式は、岡山の新見市で行われた。
岡山駅から車で2時間近くかかる場所だった。
そんな遠い場所なのに、東京からも多くの人がつめかけていた。

亡くなって初めて、Nさんの出身地を知った。
彼は大学卒業後、政治の道を志し、上京して岡山出身の国会議員の秘書となった。
しかしまっすぐで理想に燃える彼は、チミモウリョウとした政治の世界になじむことができず、やがて秘書をやめてマーケティング会社へと職を変えた。
年齢は、39才だった。

参列者の中には、その国会議員の姿も見えた。

「前の会社はどういうところだったんですか?」と尋ねると、「普通のとこだよ」といたずらっぽく返答したNさんが浮かぶ。

私は憔悴したO君とともに出かけた。
寒い日だった。

霊柩車が出棺するとき、Nさんが好きだったという曲が流れた。
山下達郎の「クリスマス・イヴ」だった。

「きっと、君は来ない」

どうして、よりにもよって、この歌なんだろう。
過去2回、私はNさんのイヴの誘いを断った。

葬儀が終わり、他の参列者とともに別行程をとるO君と別れ、私は最寄駅に向かった。
もたもたと歩いたせいで、駅に着いたとき、ちょうど電車は出たばかりだった。
静かで小さな駅の入り口には、私の他に2人、喪服を着た男性が残されていた。
次の電車が30分近く先なので、急行がとまる大きめの駅まで3人でタクシーを乗り合わせませんか、という話になった。

車に乗って初めて気がついた。
偶然にも、その2人は、Nさんが私に紹介してくれた2人、電通のYさんと印刷会社の御曹司だった。
Nさんがこの2年間のうちに引き合わせてくれた人は、その2人だけだった。
葬儀の参列者は100人以上いた。
そこで、同じタクシーに乗ったのが彼らであるとは、できすぎた偶然だった。
しかも、彼ら2人は、それが初対面だったのだから。

私たちは偶然の再会を驚き、道すがら、Nさんのことを話した。
印刷会社の御曹司は、つい先日Nさんと飲んだばかりだと言っていた。
「そのときもyukoさんのこと何度も話してましたよ」

私たち3人は、帰る場所がばらばらだったので岡山駅で別れた。
改めて連絡先を交換し、Nさんが再度引き合わせてくれた縁について感謝した。

それから1年以上経ったある朝、私はテレビから聞こえる歌に耳を奪われた。
「涙そうそう」だった。
夏川りみが歌っていて、それがヒットしていると伝えるニュースだった。
森山良子が死んだお兄さんのことを思って歌詞を書いたと言っていた。
「そんな歌だったかな?」そう思って、その日家に帰ってからBEGINのCDを引っ張り出した。
そしてCDを聴きながら、初めてきちんと歌詞カードを読んだ。


古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ
晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔
想い出遠くあせても
おもかげ探して よみがえる日は 涙そうそう

一番星に祈る それが私のくせになり
夕暮れに見上げる空 心いっぱいあなたを探す
悲しみにも 喜びにも おもうあの笑顔
あなたの場所から私が
見えたら きっといつか 会えると信じ 生きてゆく

晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔
想い出遠くあせても
さみしくて 恋しくて 君への想い 涙そうそう
会いたくて 会いたくて 君への想い 涙そうそう


そのとき私の目からこぼれた涙の量は、半端じゃなかった。
翌朝、会社の人に、「どうしたの?」と訊かれるくらい目が真っ赤になった。
お葬式ではそんなに泣かなかったのに。

Nさんが亡くなる数ヶ月前、私にくれた歌。
「いい歌を見つけたから」、そう書き添えられてくれた歌。
まさか自分が死んでしまうなんて知っていたはずはないけれど、あまりにも、あまりにも。
前触れもなく逝ってしまったけれど、まるで置き手紙のような。

そして再び、私にそれを喚起させる。
亡くなった後、もうしばらく時間は経っているのに。

私のこと、励ましてくれているのですか?
それとも、叱っているのですか?

ちょうど去年の今頃、Yさんと品川で飲んだとき、駅まで歩きながら訪れた沈黙の折、おもむろにYさんが「Nのこと思い出すことある?」と訊いた。
「ありますよ。しょっちゅう思い出します。私も今、Nさんのこと考えてました」

Nさんは、あまりにも多くのものを私に残した。
しかもそれは時間差攻撃で、追い討ちをかけるように、後から後から、私にサインを与えてくれる。

そして、少なくともあと数年後の私にまで、彼はマイルストーンを置いている。

彼が亡くなるほぼ一年前、私がモーターショーに行くため東京を訪れたとき、久々にO君と3人で銀座で飲んだ。
そのときほろ酔いのNさんは言った。
「なあ、O君。yoshinoは10年もしたら、どんないい女になるんだろうなあ?」

私はそのとき24で、34才の自分なんて到底想像できなかった。
今は、少し見える気もする。
Nさんが言うようないい女に、私、なっているだろうか。

「Nさん、これでいい?」
「私、こんなんじゃだめかなあ?」
人知れず、繰り返している。

Nさんは、きっと見ている。


ビギンの島唄 ~オモトタケオ~
作曲:BEGIN
作詞:森山良子

■2004/11/21投稿の記事
昔のブログの記事を少しずつお引越ししていきます。

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