見出し画像

ショート・トリップ-アラン・デュカス 進化するシェフの饗宴-

これもまた少し前の話になるが、5月の連休に入る直前の晩、銀座で友人と食事をした。
その友人というのは、昨夏にパークハイアットスイートルームお泊りという暴挙に出た「悪友」だが、殺人寸前の忙しさで働く彼女が再びリクエストした「たまの贅沢」シリーズということで、今回はシャネルビルの上、「ベージュ東京」でのディナー。

「ベージュ東京」は一昨年末に銀座にオープンしたフレンチレストランで、世界的に有名なシェフ、アラン・デュカスとシャネルがコラボーレートした店として一躍話題をさらった。
パークハイアット宿泊に比べれば格段に安いが、そうは言っても、あんまり女ふたりで行く場所ではない。
しかしながら、不似合いな場所に赴くというのは意外と楽しいもので、ビジネスディナー以外で来ることは滅多にないグランメゾンで、仕事帰りに女友達と軽く待ち合わせ、なんていうシチュエーションがむしろくすぐったい。

さりげないエントランスで受付の女性に名前を告げ、CHANELマークのボタンがついた非日常的エレベーターに乗って上階へと向かう。
暗い艶色の照明に迎えられたが、多忙な友人からは15分遅れるという連絡をもらっていたので、ウェイティングラウンジのソファで待つことにした。
「キールをください」
私はギャルソンに声をかけた。

実は記憶が薄らいでいるが、確か意外と大きな音でジャズが流れていたように思う。
フレンチというよりはニューヨークの香りがするなと感じたものだ。

ほどなく、暗い店内に灯りをともすような赤スグリのグラスと一緒に、ギャルソンはアラン・デュカスの料理とレストランを紹介した分厚い写真集を持ってきた。
タイトルは、「アラン・デュカス 進化するシェフの饗宴」。

「お待ちになる間、よろしければご覧になりますか」

ずしりと重いカラーページをめくると、目にも美しい料理の数々、夢のようなレストラン。
地中海に臨むホテルのテラスにシャンパーニュの泡が立ち昇り、真っ青なテーブルクロスに白い皿が清々しく輝く。

空腹に流し込む冷えたキールが、たちまちのうちに指先に、頭の先に巡る。
毛細血管の隅々を爽やかなアルコールが洗い流すのとともに、幸福な心地が満ちてくる。
休暇を前にしてほどけていく神経。

大判の本のつるっとしたページは、そのまま南仏に続いているようにも思えた。
潮の音、匂い、太陽の温度、風の感触。

もう10年も前、コート・ダ・ジュールを訪れた。
3月だったというのに、太陽はあたたかく照り、半袖のシャツで十分に過ごせた。
長旅に疲れてほとんど昼寝をして過ごした日もあったけれど、教会脇の小さなホテルの部屋で、窓を開け放しにベッドに寝そべれば程よい涼しげな風が吹いてきた。

通りではフルーツやオイスターを売っていた。
10分も歩けば浜辺まで出て、寛大で穏やかな地中海に出逢うことができた。

シャトーと呼ばれる丘の上の城跡は、上っていくだけでいい運動だった。
そこから海と空が見渡せた。
とても静かな場所だった。

路線バスに乗り、うねうねと曲がりくねってはいるけれど綺麗に舗装された道を行き、小高い場所に広がる住宅街をくぐり抜けていった。
一軒家の美術館で、半日以上時間をつぶした。
シャガールの絵は夢の中かファンタジーのような色合いだが、想像以上に宗教的な背景が色濃い。

聖書と歴史を紐解く連作を、一つ一つ丁寧に観る。
一つ一つに想いを馳せて、一つ一つの世界を旅する。

目を閉じたときに広がる世界。
彼はいつもそれを描く。
目を閉じたまま、誰よりも正しく、誰よりも潔く、世界の姿をありありと見る。

海岸沿いの路線、各駅停車に乗り、この世で最も美しいラインをなぞった。
奇跡的な海の色と、真っ白な岸壁が眩しすぎた。
ただ言葉もなく、どこまでもどこまでも行きたかった。

青いテーブルクロスに白いディッシュ。
鮮やかなカラー写真とたった一杯のキールで、暗がりに近いラウンジがたちまちに太陽に満たされていくのを、弛緩する意識の中で味わっていた。

友人の到着で現実に引き戻されても、しばらくは意識がずっと日光の中にいて、きらびやかなメインダイニングに案内され席に着くや最初に、脈絡もなく私は「南仏に行きたくなった」と友人に告げた。
彼女はいぶかしがりもせず、にこやかに微笑み、「南仏いいねー。行きたいねー」と相づちを打った。

二人ともその店は初めてだったのだが、テーブルからフロアの全景とガラス窓の先に広がる夜景を改めて見渡すと、「デート向きだね」と言葉が漏れた。
ゲストを包む照度と色彩は、まさしく大人の恋の舞台だ。


アラン・デュカス 進化するシェフの饗宴(2005年・日)
著:小椋 三嘉
写真:ハナブサ・リュウ
出版:新潮社

■2006/6/28投稿の記事
昔のブログの記事を少しずつお引越ししていきます。

サポートをいただけるご厚意に感謝します!