「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第2回 コロムビアレコード移籍
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「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第2回 コロムビアレコード移籍

霧の中のメモリーズ
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 1975年夏、谷川は東京の赤坂にある日本コロムビアの本社で大滝詠一の訪問を待った。初顔合わせである。11月、ナイアガラは日本コロムビアと契約を行う。

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意気投合

 「大滝君、このあと、ちょっと外で飯でも食うか?」

 3年前にスチューダー製A80・16トラック・テープ・レコーダが導入された日本コロムビアの第1スタジオを一通り案内した後、谷川は、頃合いを見計らって声をかけ、コロムビア通り沿いにあるレストランに誘った。大滝詠一との顔合わせが始まった。

 谷川恰(たにかわ つとむ)、34歳。

 日本コロムビアのディレクターである。ディレクターには、作家や広告会社などとの付き合い、とりわけ“夜の付き合い”を大事にするタイプと、現場でのミュージシャンとの付き合いを優先するタイプがいるが、谷川は後者である。


 谷川は、木村好夫、稲垣次郎、石川晶などの腕利きのミュージシャンからも「谷ヤン」と呼ばれ、非常に可愛がられている。

 日本クラウンの設立と、それに伴う日本コロムビア職員の退社・移籍という大騒動があった昭和38年に入社し、主に制作部で働いてきた谷川は、昭和43年に27歳という異例の若さで、ディレクターに抜擢された。新たに設立されることとなったデノン・レーベルの運営を任され、専属作家によらず、フォークやジャズ寄りの曲での新たなヒットを目指すという命題を与えられた。それ以来、歌謡曲以外全般を担当することが多い。


 日本コロムビアという会社は、3年前にぴんから兄弟の「女のみち」が300万枚を超える大ヒットを飛ばしていることもあり、制作者も販売サイドも演歌寄りで、ロックやポップスに対する認知度が一向に高まっていない。


 日本コロムビアからナイアガラのレコードを出さないかとの話は、昨年の夏以来2度目である。前回は、サイダーなどCMソング集を出さないかとの話があったが、社内でのオーソライズが得られず、ナイアガラレーベルは、エレックレコードと契約することとなった。今回、谷川とも付き合いがあり、アーティストのマネジメントや原盤制作を手がけるMから「大滝と話してみないか」との話を打診された。


 谷川は、インディーズ時代のはっぴいえんどのことはよく知らなかったが、今年開かれたコンサートで大滝詠一のライブをみて、直感的にいけると思った。

 また、ミュージシャンとして信頼できる大先輩のテナー・サックスの稲垣次郎氏が大滝詠一のアルバムで演奏したと知って、大滝について尋ねて「なかなかのヤツだ」との評価も得ている。エレックと契約した前回の時にはソニーや東芝にも打診をしたという話も聞こえており、他社も関心を寄せているかもしれない。もし、自分の目に適うアーティストであれば、自分が育てたい、という思いがある。

 大滝と二人きりで、近くのレストラン・フォンテーヌで夕ご飯を食べながら、今のニュー・ミュージック界の状況や、これまで手掛けた仕事など、あれこれと意見を交わし、話が弾んだ。

 「嬉しいです。谷川さんとやりたいです!」
 「よし、契約では、お前の案を作ってくれ。俺はそれを受ける。俺もコロムビアの運営の方を1ヶ月間ぐらいかけてまとめるから、少し待ってくれ。」「わかりました。よろしくお願いします」
大滝が頭を下げた。
「やろう。俺はお前のことを面倒みるぞ」
谷川は約束した。


稟議書

「谷川さん、コロムビアには、ナイアガラレーベルをバックアップする契約をおねがいできないでしょうか。アメリカのレコード会社と一緒で、ディストリビューションとして、提供するようにしたいんですよ。」
 「どういうこと?コロムビアのレーベルにしたくないのか?」
 大滝の提案を谷川が聞き返すと、
 「谷川さんがいる以上、コロムビアのレーベルでしょう」
 大滝は茶目っ気たっぷりに笑った。

 ナイアガラの原盤権をPMPやナイアガラ・エンタープライズが持ち、レーベルの発売元を日本コロムビアとするという、大滝の考えるプライベート・レーベル構想の提案は、海外の時流にも沿った考え方で、谷川も、進めるべきだと思っている。

 しかし、日本コロムビアは、日立製作所と昭和44年に提携して以来、レコード会社というより電機の会社の色合いが濃い会社である。日立から異動してくる上司も多く、アーティストとの契約が切れれば、財産がなくなるかもしれない“ディストリビューション”という形での契約について、社内をまとめあげることができるか、一抹の不安を感じることは否めない。

 それでも、自分がカウント・バッファローズ時代にプロデュースした石川晶は「土曜の夜に何が起ったか」を発売するときに、製作費・原盤権をアルファがもち、発売元をコロムビアにした例もある。

 「お前のやりたいようにしていくように、おれも努力する」
谷川は答えた。

 「それと、16チャンネル・マルチレコーディングをしたいです。」
あわせて、大滝からの依頼があった。

 元々、人づてに、今回、大滝がコロムビアとの契約条件に16チャンネル・レコーダーのアドバンス契約を入れたいと考えているとの話もきいていたが、1千万円は下らない買い物になる。スチューダー社からの購入契約は、大手レコード会社からでなければ出来ない。

 谷川にも、サンセット・スタジオで1か月マルチ・レコーディングの勉強をした経験があり、大滝が自分のスタジオでもスチューダーの16チャンネルを入れたいという気持ちはよくわかる。しかし、額面1千万円は大金だ。貸付金の中で処理するしかないが、会社としては初めてのことで、経理をはじめ、各課に話を通さないとできない。

 「これも努力してみる」
 谷川は答えた。


 谷川は、入社後、最初の2年間は全部門を統轄する企画室で「事業部長付き」として勤務してきた。会社の長期計画作成や市場調査を行いながら、あらゆる部署とも調整をしてき経験をいかしてみようと考えた。

 「アルバム制作のローテーション目標も決めておこうか。最初は、1年、3枚ぐらいかなぁ。アルバムはオリジナルを1年間で半期、半期でだせば2枚だろう。それにインストゥルメンタルだったり、お前が違うアーティストのプロデュースするものだったりを1枚入れればいいだろう 。」
「そうですね。」

 谷川の提案は、春先と秋の2回、半年に一度、アルバムを出し、その都度、全国各地でコンサート・ツアーを5、6か所で行いながら、アルバムを売っていくというものである。年間3枚ぐらい出していかないと印税分で16チャンネルの借金も返していけない。

 「シングル盤もアルバムから切れば、別に作らなくてもいいだろう。気分が乗ったら、別に作ればいいんだよ。そうしたら、2年で何枚よ。」
 「あっ、そうですね。もっと出してもいいんですよね。」
 「そんなに出来るのか。」


 これまでの経験で、専属作家チームを抱えていなければ、そんなに沢山のアルバムが出来るとは思えない。ただ、シュガー・ベイブの山下達郎も新しい音楽を作りそうだし、バイ・バイ・セッション・バンドの伊藤銀次のギターテクニックは、なかなかなのもんだ。彼らもそれぞれ活動してくれると面白いレーベルになるだろう。

 しかし、谷川の社内での説明は難航した。話を進めようとすると、上司からは「ナイアガラ?何ソレ?」という反応ばかりである。特に、ナイアガラという新興レーベルの制作にコロムビアが出資して、音盤権を持たないということに対する理解が全く得られない。


 「そんなのは、おかしい。少なくても50:50だろう。レコード会社が権利を持たず、洋楽のように発売するなんておかしいだろう」
事業部長からも強く反対された。

 谷川は、スチューダー社の日本支店にもコロムビアが保証すると説明に行き、納得をえた。

 社内でも最終的に今回の案件は自分がまかせてもらうという了解を事業部長と経理事業部から取った。レコード事業部、電機事業部、電機の営業事業部まで各課に口頭で説明して認めてもらった上で、稟議書を回していった。

 稟議書の決裁が終わり、谷川は大滝に連絡をとった。
 「16チャンネル・レコーダーはアドバンス契約。その代わり、年間でアルバム3枚の契約。これでいこうぜ。お前これでいい?」

 大滝は16チャンネルが確保され、心が躍っている。
 「谷川さんがいうなら、いいですよ。それで。」
 「お前が、ナイアガラだろう。俺がナイアガラじゃない、お前がやるんだからさぁ。」
 交渉成立である。

 これまで、谷川は、フォークソングやポップソングの様々なジャンルの音楽をディレクターとして担当してきた。マイケルズでは10万枚を超える中ヒットを出している。

 弘田三枝子の「人形の家」の作詞をなかにし礼に頼んだり、森山佳代子の「白い蝶のサンバ」の構想を阿久悠に頼んだり、ヒット曲作成の取っ掛かりの段取りをつけ、いざレコーディングという時期には人事異動ということも何度もあった。それが大企業で働くサラリーマンのサガである。今回は社内で注目されていない部門で上司の了解も取っているので、すぐに交代することはないだろうから、少し本腰を入れて取り組めそうだ。

 これまでの自分のノウハウを注いで、販売戦略を立てて売り出そう。アルバム発売、ライブ、地方回り、忙しくなる。必ず、彼を一丁前にしてやるぞ、と谷川は自分に誓った。

 11月、ナイアガラ・レーベルは日本コロムビアと3年間の契約を行った*。


*註)契約は3年でアルバム12枚と思われる。

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 はい、いかがでしたでしょうか。

 今週の「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」は「コロムビアレコード移籍」でした。

次は「『ナイアガラ・トライアングル』レコーディング」を予定しております。谷川氏が連日連夜、福生まで通った日々や、音頭の録音にあたって邦楽部のミュージシャンを手配した様子などについて、ご紹介したいと思います。

それではまた、本NOTEにて。Bye Bye!

                               2021.11.22 
                               霧の中のメモリーズ


「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」
はじめに <2021.10.25>
第1回 プロローグ(舞台袖の谷ヤン) <2021.11.15>
第2回 コロムビアレコード移籍 <2021.11.22>
第3回 『ナイアガラ・トライアングル』レコーディング  (Coming Soon!)

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《経歴》

谷川恰氏 略歴 
1941年(昭和16年)3月生まれ
1963年(昭和38年)北海道大学経済学部卒業、日本コロムビア入社
1968年(昭和43年)DENONレーベル創設、運営担当
1975年(昭和50年)(契約)から、1977年(昭和52年)の間、大滝詠一担当(LP『ナイアガラ・トライアングルvol.1』~LP『ナイアガラ・カレンダー』企画まで)
1983年(昭和58年)日本コロムビアを退社。アメリカに自分のレコード会社を作る夢を実現させるため、渡米。A.S.A.Pなどを手掛ける。
その後、VAPレコード統括管理部長などを歴任。

レコード盤、針を落とさにゃ 音出ない
霧の中のメモリーズ
ころころと  小石流るる  谷川の 水のきらめき  青空の滝