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多様性を認め合うのは生ぬるい優しさとは対極にある

多様な人々が対話をし、理解し合う村づくりをしたい、と思っている。
が、世間では分断が起こっている。
黒人差別の問題は言わずもがな、
田舎でだって、知り合いのおじさんは嫌韓を叫んでいる。
宗教だの、フェミニズムだの、派閥だの、とにかくいろいろな分断が。

だからこそ、いろいろな背景を持った人たちが同じ釜の飯を食うような場づくりができたらいいなと思っているのだけれど

一方で、「多様性?みんな仲良しこよしなんて、そんな社会はできっこないよ」という声もある。
「生ぬるい、夢物語じゃないか」と。

「わたしの求めているのは、仲良しこよしの楽園なのだろうか?」

長年答えの出なかった問いに、なんとなく道すじをくれたこの本。

夫とともに、この書籍を読んだ。
↓話題になった本だから、みんな見たことがあるのではないだろうか。

著者は英国人と結婚しており、息子は日本人と英国人の「ハーフ」。
そんな「イエローでホワイト」な息子が、中学生になり元底辺中学校へ行き、いろいろな人種やポリシー、考え方の人々と出会い、喧嘩し、悩みながら成長していくというエッセイ集だ。

葛藤しながら、多様性を受け入れていく息子くんが生き生きとしていて素晴らしい。

読んだ夫のnoteはこれだ。

多様性を認め合うのは苦しみを伴う


世間はいま、分断が剝き出しになっている。
しかしこれはこのパニック状態の中、もともとあった火種がたまたま噴出しただけだ。

人間はもともと分類することが好きだ。

分類することで、世界を暮らしやすくしてきた。虫だって丁寧に科とか目とかで分類される。
図書館だって、本が分類されていることで、読みたい本が探せるようになっている。

わたしの息子も分類が大好きだ。
お客さんがくるたびに「今日のメンバーはあわせて男が3、女が4で女のほうが多いね」、なんていう分類をしては始終楽しんでいる。それはもちろん、男と女を分断させたいわけではなく、世界は分類できるのだという素朴な喜びに満ちた遊びなのだ。

しかし分類した時に、優越をつけると分断と軋轢が生まれる。

左利きのほうが頭が良い、とか。
アフリカのひとはダンスがうまい、とか。
アジア人はダンスが下手だ、とか。
老人は害だ、とか。
若者は馬鹿だ、とか。

わたしは常々、なぜ人は分類して蔑みたがるのだろう、と思ってきた。

(老害とかいう言葉も好きではない。必ず全員、みな老人になる。そして老人はみな、赤ちゃんだったんだ。
それなのに、なぜ老人は害悪であると言えるのか?
自分も100%(若死にしない限り)老人になっていく。
どれだけ頑張っても、認知能力は減っていく。
いつか死ぬんだから、当たり前だ。

視野も(物理的にも)狭くなる。耳は遠くなるし、動きは遅くなる。情報にもついていきたくなくなる人もいる。全員がエネルギッシュな老人になれる社会というのは、無いと思う。
誰にも、生きているだけで害だと感じられる日が、いつか来る。

ちょっと話が逸れたが、分類して蔑むという行為は、至極簡単な行為でとても楽なのだ。人間は安きに流れる。

人を動かしたい時、分類して蔑めばいい、というのはナチスドイツの例やルワンダの内戦(ツチ族とフツ族の対立からの大量虐殺、ベルギーによる傀儡政権が火種だったという説も)の例をみても明らかだ…。

私は多様性を認め合う社会というのが憧れだった。

誰もが命を賞賛して、みな自分を肯定できる世の中になったらいいな。
誰もが相手を思いやって、対話ができる場があったらいいな。

愛するスティービーワンダーの歌に、「Visions」というのがある。
「みなが手を取り合う…これはただ甘いだけの幻想なのだろうか?」と言っている。

多様性を認め合う社会、ってただ生ぬるいだけの幻想なのだろうか?

この本を読むと分かるけれど、多様性を認め合うという行為は、文字通り血の滲むような、泥の中を這うような、そんな不毛にも思える努力が必要となる。

結婚だってそうだ。

二人の異世界から来た他人同士がはじめてぶつかり合う、ちいさな多様性。

結婚して最初のうちは、お互いの持ち寄った文化の違いに驚き、嫌悪する。
タオルを洗う頻度、とか。お風呂を出るときの儀式、とか。そんなことで。

でも文化の違いでいちいち離婚していたら人生何回あっても足りない。

多くの夫婦は、そこで話し合い、歩み寄って、ひとつの文化をつくる。

5年、10年もすれば多様性体験の経験と実績を備えた立派な「家庭」をこしらえる。

お互いの文化を忌み嫌っているだけでは、家庭という文化は生まれない。


社会の中の多様性だってそうだ。
最初から最後まで、ハネムーンみたいな甘ったるい世界は、ない。

違う文化を受け入れるときは、血液の中の白血球みたいに、排斥し嫌悪し反応する。文化を受け入れるのは、つらく苦しい。

でも、多様性というのはそういうことなのだ。

とにかく対話が必要

他文化を受け入れるのに、何が必要か。

私は「対話」だとはっきり言う。

わたしたち夫婦は、人一倍対話に時間を使ってきたと思う。
忙しい時でも、険悪なときも、対話しないと進めないよ、ってかんじで。

線路の上の置石みたいに、なにか問題があったら、まず置石をどける。それまでは電車は運行できない。

やりたいことがあっても、仕事していても、中断して対話してきた。

好んでやっているときもあれば、置石が置いてあるからしょうがなく、という感じで対話するときもままある。

対話無しでは、相手の感情を踏みにじってしまう。

逆に対話があれば、どんな人も文化も、受け入れることが可能だと、いまは信じている。

多様性のある社会をちゃんと求める

わたしの好きな聖書の一節に、「求めよ、さらば与えられん」というのがある。有名な一句だ。

これは「ちゃんと求めないと、与えられないよ」ってことでもある。

「ほしい、ほしい」というのは求める行為ではない。

対話したあとの世界を、ちゃんと思い描いて、論理的に求める。感情的にも求める。

全員が求めれば、当たり前だが世界は変わる。

生半可な気持ちでなく、魂をえぐりだすように、求めなければならない。


さて私は夫のnoteのこの段落が夫らしいなと思って感心して。

だから、「どちらもある」が正解だろう。右左の正しさを問うのでなく、オレの中に矛盾する概念がある、でもそれは人間なら当たり前で、矛盾のない澄み切った思念で生きているわけでない。

人間の身体には右手と左手がある。オレは利き手が右だが、左手が不要なわけがない。右手が正しくて左手が間違ってる、なんてこともない。
思想だって同じだ。右も左も一つの社会を形作る欠かせない身体の部分なのだ。利き手ばかり偏重していれば、身体のバランスが悪くなって健康を害する。要はバランスだ。
スケールを一人の人間に落とし込んでも同じだ。一人の中に両方ともあると感じるのは不自然なことではないだろう。

聖書には、「あなたの右手が正しくない行いをするなら、切ってしまいなさい」というのがあるから、ぷぷっと笑ってしまうのだけど、この聖句は、自分自身の心に刃を立てなさいということだから、夫の言っているのとはちょっと違う。

多様性のある社会のために、あなたは何する?


私は昔からまわりのひとには言っているのだけど、まずはこういうことがしたい。

いろんなバックグラウンドを持った国のひとが一堂に会して一緒に農作業して、農業とかマーケティングとかを学んで、一緒にごはんを食べて、一緒に寝て、一緒に雨の音を聞いて…

っていう場所をつくりたい。

まずは来年、ワークキャンプを笠置でやりたいな。
あと夜の森ピクニックで、みんなの心のなかを知りたい。




多様性のある社会にするために、わたしができることはいっぱいある。

あなたもぜひ、なにかしら。


夫のnoteの交換日記的なかんじで書き始めたら、
たくさん書いちゃった。



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