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【前編】『自分自身でキャリアを、自分自身がオーナーシップを持って築いていく』OECD東京センター長 村上由美子さん

ウーマンズ代表の大山・メンバーの山村が通っている津田塾大学で、村木厚子客員教授の『女性のキャリア開発』で出会ったOECD東京センター長 村上由美子さん。

「ゴールドマン・サックスで働いてた時の年棒でも、今日は素直に答えるから、ぶっちゃけ何でも聞いちゃって!」と一言。上智大学を卒業後、スタンフォード大学院、ハーバード大学院で修士を取得し、仕事の舞台はいつもグローバル。経歴を拝見してから授業を受けるまで、雲の上の存在のように写っていた村上さんに一気に親近感が湧きました。

前編:旅行が大テーマだった大学時代から一変し、ファーストキャリアとして仕事のベースができた国連での学び
▶︎「エキゾチックな経験が人生を変えた」
▶︎「忘れもしない食中毒大事件」
▶︎「学生だったのにロシア旅行の添乗員としてロシアへ」
▶︎「自分自身でキャリアのオーナーシップを持つ」
後編:ハーバード大学院を卒業し、ロールモデルに出会えたゴールドマン・サックスでの仕事話から、結婚の決め手
▶︎「自分も会社が家族という気持ちだった」
▶︎「自分が人間として、プロフェッショナルとして成長することができるか」
▶︎「結婚で重要なのはお互いの価値観が共有されているか」

前編、後編と豪華2本立てで、たっぷりお届けします🤝今回はその前編です!

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村上由美子さん: 上智大学外国語学部卒、スタンフォード大学院修士課程(MA)、ハーバード大学院経営修士課程(MBA)修了。その後約20年にわたり主にニューヨークで投資銀行業務に就く。ゴールドマン・サックス及びクレディ・スイスのマネージング・ディレクターを経て、2013年にOECD東京センター所長に就任。OECDの日本およびアジア地域における活動の管理、責任者。政府、民間企業、研究機関及びメディアなどに対し、OECDの調査や研究、及び経済政策提言を行う。ビジネススクール入学前は国連開発計画や国連平和維持軍での職務経験も持つ。ハーバード・ビジネススクールの日本アドバイザリーボードメンバーを務めるほか、外務省、内閣府、経済産業省はじめ、政府の委員会で委員を歴任している。著書に「武器としての人口減社会」がある。

「エキゾチックな経験が人生を変えた」

WI大山:仕事の舞台をグローバルに、堅実に経験を重ねられてきた村上さんのお話を伺えることを楽しみにしていました!今日は宜しくお願いします。今の私たちのような大学生の頃に、強烈に憧れていた方や選択する時に頼りにしていたことはありましたか?

村上さん:強烈にこの人に憧れたという方はいませんでしたね。ただ自分とは異なるバックグラウンドを持っている方との出会いや、色々な経験をすることによって、「こういう人生もありだな」と思うようにはなりました。そういう小さな積み重ねが自分にとっては大きかった。

私の人生の方向性に大きな影響を与えたと思うのは、バックパックで超貧乏旅行。夏休みの間に東南アジアの物価が安いところを1日10ドル以内で旅していました。大学卒業後に海外で生活することになって、仕事や人生を考えるために欠かせない経験だったと思うんです。

この旅までずっと日本で生活していたので、そういうエキゾチックな環境を知らなかったんですよ。私はバックパックを背負って貧乏旅行をしたのが、人生初の大カルチャーショックでした。

島根県の松江市出身なのですが、みんな顔見知りのような街から飛び出し、海外のサバイバルチックなところで生活して価値観が根底から変わった。今考えてみると何にも代えがたい経験だったと思います。18,19歳の時に経験して、世界ってこんなに違うんだと。その後の人生を考えるのに役に立ちました。

じょうち

WI尹:バックパックで超貧乏旅行は何かから影響を受けていたんですか?きっかけがあれば、教えて頂きたいです。

村上さん:「特別ここに行きたい!」っていうのはなかった。ただの好奇心だったんです(笑)お金もないから遠いところにも行けず、学生だからアルバイトをしてお金を貯めて行くってなると限られるでしょ。

当時は安く行けてエキゾチックって言ったら、インドとか中国。その当時の中国は、個人旅行が認められる前で、団体旅行じゃないとビザが下りなかった。そういうところに中国人のふりをして行くのは難しいから、筆談で入り込んだりしたの。食中毒もしたけど、若いので1日2日寝てもすぐ治るって感じだった。

1日10ドルの予算だから安い宿に泊まって、地元の人が食べる屋台で食べるっていう生活をするわけですよ。安い宿に泊まるときは、だいたいユースホステルの大部屋みたいなところで2段ベッドが沢山並んでるみたいな。結構色んな国からバックパッカーが集まってきて、色々な国から来てるけど共通言語は英語。聞いたことなかった国出身の人と話しましたね。中国人やインド人と話すのも面白かったけれど、そこに来ている人と交流することによっても自分の視野が広がった。

「忘れもしない食中毒大事件」

村上さん:中国の西安で地元の辛いもの食べようと思って、道端のバンバンジー食べたら当たっちゃったの。その日の夜に凄いお腹が痛くなって、高熱も出て。結局食中毒だったのだけれど、病院に行くにも言葉が通じない。筆談で「我有腹的痛!」って書いたら通じて、ユースホステルのおじさんがわかったって言って、荷台を持ってきてくれてそれに乗って、ロバがその荷台を引くわけですよ(笑)

熱があったからうる覚えだけど、その西安の郊外から診療所まで1時間くらいロバの荷台に揺られて、結構苦しくて、月が見えた瞬間ここで命を落とすのかもしれないって。診療所に行って薬をもらって、何とか復活した。これは19歳くらいの話で、今はもう出来ないんですよ。

サバイバルなところで生きて、自分がいかに恵まれているか分かった。同時に自分がいかに狭い世界で生きていたかも分かったし、自分と違う国で育ってきた人と喋るのが凄く楽しかった。

スタン

スタンフォード大学時代の村上さん

結局私は日本に留まらずに、人生の半分海外で過ごしているんです。そういう道を選んだのも19歳でお腹痛くなりながらロバに引かれたバックパッカーの経験と、色々な文化や考え方に触れたことが大きかったなと。

私は若い人たちに貧乏旅行しなさいって伝えたい。高級ホテルに泊まっても出会いがないわけですよ(笑)でも安いユースホステルの大部屋に泊まると、絶対友達が沢山できる。歳を取ると身体がついていけなくなるから、そういうところに泊まれなくなる。若いときにサバイバルチックな旅行するっていうのは、自分の経験を踏まえてオススメしたいですね。

「学生だったのにロシア旅行の添乗員としてロシアへ」

WI山村:人生の半分以上を海外で過ごすための資金を、どうやって集められていたんですか?

村上さん:海外で生活するようになったのは、卒業してからです。大学を卒業するまではずっと日本にいました。上智を卒業して日本で就職せずに、すぐにアメリカのスタンフォード大学に留学したんです。お金を貯めて海外に行きたくて、バイトを詰め込んでいたので、大学時代はアルバイトメイン。忙しかったので、あまりサークルに行けませんでした。

お給料をもらいながら、日本人観光客とロシアに旅行するという美味しいバイトがあって、添乗員をしていました。ロシア語を喋れる人がいない中で、たまたま勉強していて…。

国連

国連で働きたての村上さん(バルバトスにて)

「自分自身でキャリアのオーナーシップを持つ」

WI竹内:なかなかロシア語を勉強することってないと思うんですけど、どこで勉強されていたんですか?

村上さん:上智に入学した時に、みんな英語はできるからもう1言語勉強した方がいいかなって思ったんです。私が勉強していた当時はロシアになる前で、アメリカとソ連が冷戦を繰り広げていた冷戦の時期。名前がまだソビエト連邦で、鉄のカーテンと言われていました。日本と隣の国だけれど、政治的には緊張した関係があって、その当時、1番重要性の高い言葉はロシア語かなって思ったんですよ。結局私の考えは外れて、ソビエト連邦は崩壊してロシアになった。

でも英語の次に面白い言語って何か考えていたら、単純にロシア語になった。普通だったら大学生が添乗員のバイトをすることはできない。私もそんなにペラペラじゃなかったけど、日常会話をできる人がいなかったので雇ってもらい、何回かロシアに行きました。新潟や秋田だと海を越えればウラジオストックなので結構近いですよ。

ソヒちゃん

WI清田:取材に伺うまで村上さんの記事を拝見させて頂く中で、村上さんはキャリア形成を重要視されているように感じました。キャリアを築いていく上で、モットーを持たれているのでしょうか?

村上さん:1つは、自分がオーナーシップを持つこと。日本の雇用環境は独特なので、ある程度仕方ないと言ってしまえば仕方ないのかもしれない。入社すると会社がひいてくれるレールに乗り、そこから何年後には課長になり、何年後には部長になる。人事がひいてくれるレールにうまく乗ることで、自分のキャリアを形成していくという考えを持っている人が、日本にとても多い気がするんです。

村上さん

国連勤務時代の村上さん(カンボジアにて)

終身雇用制、年功序列が崩れてきているので、自分自身でキャリアのオーナーシップを持つ。自分で切り拓いていく意識を持たないと、どこかで壁にぶつかってしまうんじゃないかと私は考えているんです。

私が初めて働いた場所は国連でした。人事が次のポジションを用意してくれることはなく、全て自分で探す。国連での勤務経験が自分のベースにあって気付かされることが多く、ラッキーでしたね。

ウーマンズの大学生メンバーが社会で働き出す時には、“自分自身でキャリアを”、“自分自身がオーナーシップを持って築いていく”形になっていくんじゃないかなと。「〜〜会社の村上です」みたいなアイデンティティーは、どんどん薄れていくと思っています。

後編では「ハーバード大学院を卒業し、ロールモデルに出会えたゴールドマン・サックスでの仕事話から、結婚の決め手に出産」までライフステージの選択まで幅広くお届けします!

(文:上之山紘奈&植之原里沙、構成・編集:大山友理)

Women's Innovation前HPブログ掲載記事を再編集(2018年11月9日取材)




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